福山 鞆の浦 仏庭十三仏がある「地蔵院」

 鞆城跡の高台の南西あたりに位置する「鶴林山地蔵院」。この地蔵院は、慶長年間の後半に徳川家康が立案し、徳川秀忠が発令した「一国一城令」のため廃城となった鞆城の二ノ丸の跡地に再建された、真言宗のお寺です。1408(応永15)年に宥真法師によって中興され、室町時代には将軍家の祈願所とされていたようです。金色に輝く本堂には、ご本尊である秘仏地蔵菩薩が鎮座。中国地蔵尊霊場第八番として信仰を集めています。また、山門や本堂脇には達筆なご説法が貼られており、じわっと心に染み渡ります。

笑えば遺伝子も活性化する!

 「笑い」が、がんの研究から「免疫力が上がるのでは」と言われるようになってしばらく経っています。今回の新コロナウイルスに対する免疫力アップに、効果があるとは明確にはなっていませんが、きっと効果があると考えましょう。家に閉じこもることが必要になっています。鏡を見て笑顔づくりの練習や、笑顔で、新しく来る社会について、家族で雑談して時間をつぶすことも必要なのでしょう!

鎌倉 日蓮の弟子の四条金吾頼基の屋敷に「収玄寺」

 むかし、日蓮の弟子の四条金吾頼基(よりもと)の屋敷があったところです。1271年(文永8年) 9月、日蓮のいた庵に北条時宗の使者が大勢きて、日蓮を由比ケ浜に引きたてていきました。このことを知らせる使いが頼基の所に走り込んでくると、頼基兄弟はすぐさまはだしで由比ケ浜にかけつけました。
 「日蓮上人を殺すならば、自分を身代わりに段してください。」
と申し出たのですが、そのため役人ににらまれてしばらく土牢(つちろう)に入れられたり、主人の江馬光時(えまみつとき)から領地を没収(ぼっしゅう)されたりしましたが、信仰をまげなかったということです。

農薬を使いすぎはヘタで見分ける!

 日本で化学肥料や農薬が使われ出したのは100年ほど前。もちろん天然材の害虫駆除は大昔からわずかながら使われていました。多くの害虫駆除は人力で対応していました。農薬は、科学的には安全だとされていますが、どうなのでしょうか? 科学とはそんなに信頼できるものなのでしょうか。少し違う例ですが、中国で発達した「漢方」は、征服した人達を人体実験に使い、それも50年とか100年も実験し、効能を見つけられたものです。いまの科学は、特定の環境下での実験で、測定(データ化)できたものだけが正しいとされています。データにできなかったものはすべて否定されます。それが科学で、それを伝えるのが専門家ですね?

尾道 金堂の保存修理で間違いが「西国寺」

 ここの金堂の保存修理工事では、建物の右側の側面の戸と左側の側面の戸をめぐって、戸を右前に並べるか、それとも左前にするか、それをめぐる話があります。
 金堂の左右側面の戸は、舞良子(まいらこ)と呼ばれる細い桟が一定の間隔で取り付けられています。こういう側面にある戸は、中世までの建物では、左右の戸が建物の正面から見て対称になっていることがよくあります。右側の側面の戸が右手前に並び、左側の側面の戸は左手前に並ぶことです。
 西国寺の金堂の左右の舞良戸も右側面は右手前に並び、左側面は左手前に並んでいました。
 ところが、保存修理を終わってみると、左右とも右手前に戸を並べてしまっていたのです。建具を担当した職人が、引き違いの戸は右手前と思い込んでいたため、こういう間違いが起きてしまったのです。

「田舎で暮らします」は甘いものではない!

 「田舎暮らし」に憧れているが、面倒だとも考えている都会人は多いことと思います。いろいろと知識を学んでしまうと、その知識の枠から抜け出せなくなります。田舎は、知識より体験が優先しています。その体験をもとに、いろいろとルールができあがっているため、体験が乏しい都会人は、田舎に溶け込むことが難しいのでしょう。ただ、戦後もそうでしたが、田舎の人達は社会が混乱しているときでも、普通の生活を送ることができていました!

鎌倉 初の征夷大将軍坂上田村麻呂ゆかりの「巽神社」

 坂上田村麻呂、源頼義ゆかりの神社(801年創建)です。延暦20年(801年)坂上田村麻呂は征夷大将軍として陸奥国の蝦夷を降し、現在の岩手県奥州市、盛岡市に城を築きました。その東征の際、奥津日女生命、奥津日子命、火産霊命を葛原岡(源氏山)に勧請したのが、巽神社の始まりといわれています。
 その後、葛原岡から現在の地に移され寿福寺の鎮守神として敬われ、寿福寺の巽の方角にあることから巽神社と改称されました。
 日本最初の征夷大将軍坂上田村麻呂が活躍したころ、富士山が大噴火した最初の記録が残っています。富士山の噴火記録は、奈良時代の末期からあるのですが、大噴火の記録としてはこの延暦の噴火(西暦800~802年)からです。

今この時をどのように生きるのか!

 まず、「いま」をキチンと見ることが重要ですね。平時は、「いま」をそれほど見なくて将来を考えても、「将来」と「いま」がそれほど違わないので、大きな問題にはなりません。しかし、混乱期に入ると、まず「いま」を冷静に見て、その「いま」から、新しい「将来」が始まるかどうか、考えていかなければなりませんね。今は、テレワーク方式の仕事や学びの場が、どの程度社会に定着するかで、社会が変わるかどうかが決まりそうですね!

尾道 間借りしていた三軒長屋「志賀直哉旧居」

 志賀直哉が1912年から1913年にかけて間借りしていた三軒長屋。
 志賀直哉は、夕方になると八坂神社があるあたりの歓楽街に出かけ、帰ってくるのは明け方だったとか。
 長屋のとなりのおかみさんに家事などの面倒を見てもらっていたとか、そのおかみさんのご主人は、「あの遊び人の面倒などみるな!」と言っていたとか。
 そのおかみさんのためにか、尾道でガスを引いたのが2番目に早かったとか、そんな話が残っているようです。

「いま」をいちばん大切に!

 疫病は怖いですね。どうも世の中のしくみが変わるような事態になりそうです。「いま」をしっかり見ていきましょう。14世紀にヨーロッパで人口の22%が命を落としたといわれるペスト(黒死病)。イングランドやイタリアでは人口の8割が死亡したとも。全滅した街や村もあったとか。そのペストがアメリカ大陸に持ち込まれ、南米のほとんどの国がヨーロッパに征服された歴史があります。それでも、その現状を冷静に見、対応した人々がそれ以降の歴史をつくってきました。大混乱の時期には、どんどん変化していく「いま」を、冷静に(いろいろな情報に惑わされないで)現状を見ることで、なにかしらの対応策が生まれてくるのでしょう!

鎌倉 夢窓疎石の塔所、関東夢窓派の拠点「黄梅院」

 円覚寺がある谷の一番奥に黄梅院があります。山号は伝衣山(でんねさん)。本尊は千手観音像。五山文学で有名な造庭で有名な夢窓疎石の塔所です。疎石は建治元年(1275)生まれ、京都南禅寺に入寺した後、鎌倉瑞泉寺を開き、元徳元年(1329)に円覚寺五十三世として入寺。後醍醐天皇や足利尊氏の帰依を受けました。観応二年(1351)に死去、臨川寺に葬られましたが、後の文和三年(1354)に弟子の方外宏遠によって円覚寺内にも塔所が造られました。生前、黄梅院は夢窓派の活動拠点となり、また応安元年(1368)に足利尊氏の子、二代将軍足利義詮の遺骨を分骨したことで、さらに発展しました。しかし、足利氏の外護を受けていた時代が終わると、衰微していきました。

言っていいことのけじめ!

 世間が今のように戸惑っているときは、できるだけ明るくはしたいものです。しかし、単なる強がりだけでは、見抜かれてバカにされます。何かしらの“体験から得た強さ”の裏付けのある明るさがあると、多くの人達の心を落ち着かせることが出来ます。スポーツ選手や有名人のはげましの言葉は、そんな力を持っているのでしょう!

厚木 渡辺畢山が描いた厚木六勝図に「熊野神社」

 熊野神社付近は、古くから「熊野の森」といわれ、大きな木がたくさん生い茂っていました。渡辺畢山が厚木を訪れた際に描いた厚木六勝図の一枚に、「熊林ノ暁鴉」(熊野の森に明け方群がる鴉)があり、これはここの風景を描いたものです。この絵から人家もまれだった当時の様子がわかります。
(注)乳状下垂……古いイチョウによく見られる状態で、幹や太い枝の表皮に一部が乳房のように垂れ下がったもの。

周囲に同調していると!


 激動の時代になってしまうようです。このようなときは「多数は正しくない」と思ったほうが良いようです。多数とは、今までの延長で物事を考えてしまう人が多いからです。今回は、専門家といわれる人達の意見は、二転三転しています。過去に学んだ知識から答えを出そうとしているからでしょう。
 人類は同じような経験を数多く体験してきています。視点を変えて歴史を見て、そこから答えを見つけられるといいのですが。例えば、「挨拶はお辞儀」、「寺社では手水舎で手洗い」、「履き物は脱いで部屋に入る」……、感染予防の風土が根づいているのですから!

鎌倉 後醍醐天皇を助けた「日野俊基朝臣の墓」

 日野俊基は、下流の儒家の出でしたが、後醍醐天皇の信任を得て蔵人となりました。後醍醐の朱子学(宋学)志向に影響を受け、鎌倉幕府討幕のための謀議に加わました。諸国を巡り反幕府勢力を募ったが六波羅探題に察知され、正中元年(1324年)の正中の変で、同族の日野資朝らと逮捕されましたが処罰は逃れました。京都へ戻ったのですが、元徳3年/元弘元年(1331年)に発覚した二度めの討幕計画である元弘の乱で再び捕らえられ、得宗被官・諏訪左衛門尉に預けられた後、鎌倉の葛原岡で処刑されました。

漁民が農民より健康度・老化度がよい!

 昔から近海の漁師さんたちは、元気が良かったですね。特にお祭りなどのときは、ものすごく威勢が良かったです。むかしは瀬戸内海では「半農・半漁」といい、天候や潮の状態により、農業と漁業に従事する時間を使い分けていました。その影響か、サラリーマンの人でも、定時で帰り少し広めの家庭菜園をやる人もいました。
 現在の疫病で混乱した社会を見ていると、むかしの人達の生活スタイルは、疫病の蔓延時や戦争・戦後のときの生活を念頭にした生活スタイルが、生活の中に組み込まれていたのですね。今回の疫病での混乱で、もう一度、生活スタイルを見直す必要が出てきているのでしょう!

尾道 蛇が神さまの使い「辨天神社」

 「辨天」は「べんざいてん(弁才天)」の略。
弁才天は七福神のなかで唯一の女性、美と才能、財宝を生み出す女神、弁天(べんてん)(弁財天、弁才天)です。もとは「水のカ」を象徴するインドの女神サラスバティーです。
 「弁才天・辯才天」(「弁(辯)才」は 梵 Sarasvatī (サラスヴァティという女神の訳語) インドの神の名。聖河の化身という。
 室町時代以降は、弁財天が七福神の一神に加えられて福徳財宝をつかさどる神様として崇められるようになり、とりわけ江戸時代になるとその人気が大いに盛り上がりました。

退屈な時間の中で想像力を働かせよう!

 小さいとき、自由にいろいろなことをやっていると、暇な時間が出来たときに、何かやることが見つかるものです。子どもの時、特定の習い事やクラブ活動などをやり、大人になると専門的な分野に取り組んでいると、暇になったとき、やることが見つからなくなります。今回の疫病対策としてテレワークが始まり、通勤時間の一部が暇な時間になっ人もいます。こんなとき、この時間を使って、何かやることを見つけ、定年後の将来に備えてみるのも、一つの方法ですかね!

鎌倉 北条一族の霊を弔う「宝戒寺」

 

 このあたりは、鎌倉時代の執権であった、北条一族の中でも「得宗家(とくそうけ)」と呼ばれる北条氏本家の屋敷があったところといわれくいます。
 1333年(元弘3年)、新田義貞の鎌倉攻めにより、北条氏は滅んでしまいました。その後、1335年(建武2年)に北条高時をはじめとする北条一門の霊をなぐさめるため、後醍醐天皇が足利尊氏に命じてこの地に寺を建て、宝戒寺名付けました。

神社に向かって手を合わし、心を整理!

 現代は、情報があふれ、接する人もあふれ、モノもあふれ、社会にはいろいろな出来事があふれています。そのようなも雑多なものに合わせて行くと、どこかおかしくなってしまいます。そのこころの掃除のために神社にいってみてはどうですか。神社が立地している地形を観察すると、災害に合わないような場所にあることが多いようです。このような場所は、安全でパワーがある所なのでしょう!