巽神社
鎌倉市扇ガ谷1ー9-7 標高 9.7m
坂上田村麻呂、源頼義ゆかりの神社(801年創建)
祭神:津日女生命、奥津日子命、火産霊命
平安時代の延暦20年(801年)に、日本で最初の征夷大将軍となった坂上田村麻呂は征夷大将軍として陸奥国の蝦夷を降し、現在の岩手県奥州市、盛岡市に城を築きました。
その東征の際、奥津日女生命、奥津日子命、火産霊命を葛原岡(源氏山)に勧請したのが、巽神社の始まりといわれています。
その後、葛原岡から現在の地に移され寿福寺の鎮守神として敬われ、寿福寺の巽の方角にあることから巽神社と改称されました。
日本最初の征夷大将軍坂上田村麻呂が活躍したころ、富士山が大噴火した最初の記録が残っています。
富士山の噴火記録は、奈良時代の末期からあるのですが、大噴火の記録としてはこの延暦の噴火(西暦800~802年)からです。
富士山の山腹から、大量の火山灰が出、その結果、東海道の道筋が変わってしまったらしいのです。延暦の噴火以前は、東海道は箱根の北、足柄の関所があった足柄路を通っていました。足柄峠を通る道が、もっとも主要な街道だったのです。足柄路は、箱根路と比べるとずっと富士山に近い。この足柄路が、延暦の富士山噴火で降り積もった堆積物で、塞がれてしまい、その結果、南を通る箱根街道が新たに開かれた、と考えられています。
「荒神さま」というとかまどの神・火の神として尊敬されてきました。平安時代のはじめ、坂の上坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が東国をしずめるためこのあたりにきたとき、葛原岡(くずはらおか)に荒神を迎えたという伝説があります。その後、1049年(永承4年)に源頼義(みなもとのよりよし)が社殿を
改築したといわれ、さらに、今の場所に移ったそうです。
鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より
荒神さまの由来
三宝荒神(さんぼうこうじん)がもとになっています。三宝とは、仏・法・僧のことで、仏教における重要な要素をいいます。
この三宝を守護するのが三宝荒神です。陰陽道と仏教の民間信仰が習合して生まれました。役小角(えんのおづぬ)が感得したと伝承されており、修験道で祀られています。
この神は荒ぶる性格のため、粗末に扱われたり、畏敬の念が足りないとたたるそうで、反面、霊験が強いとされています。
江戸時代以降は、不浄を嫌うことから、火を燃やす清浄なかまどの神になりました。
転じて火の神、そして炊事を司るので食物の神・農耕の神に、また、家庭や牛馬の守り神としても信仰されています。
すがたは八面六臂または八臂の念怒相が一般的
ですが、柔和な如来荒神や、神将形の子島荒神もあります。
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神社の前には、鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)にあった石灯籠(いしどうろう)もあります。ふるくから寿福寺の巽(たつみ)(南東)の方角にあたっていて、寿福寺の鎮守(ちんじゅ)であったといわれています。
鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より