相模原市南区 2012年4月出火、その後再建「下溝八幡宮」

 この神社は、天文年間(1532ー1555年)に溝郷(ごう)が上溝と下津の両村に分かれた際に、下溝村の鎮守として上溝の亀ヶ池八幡宮から勧請して創建された神社であると伝えられています。
 また、中世の屋敷跡と思われる「堀の内」と呼ばれる地点からみて、その裏鬼門(西南)にあたるので、ここに建立されたという話もあります。
 参道の脇にある小祠には、市の重要文化財に指定されている「不動明王坐像が安置されています。これは享保9年(1724年)に後藤左近藤原義貴(ごとうさこんふじわらよしたか)が製作したもので、もともとは別当大光院の本尊でした。

人間が二人集まれば支配が始まる!

 ロシアのウクライナ侵略の報道を見ていると、民主主義には弱点があることを認識した上で、社会を構成しなければならないことを、改めて感じますね。
 ロシアにしても、中国、北朝鮮も選挙はあります。但し、情報や教育が操作されたり、選挙のときに監視されたりはしているようですが。
 民主主義の弱点をカバーするには、いろいろな考え方を受け入れる社会を保つ必要がありますが、これあは「曖昧な社会」でもあります。日本の歴史でも、多様な考え方を受け入れる曖昧(いいかげん)な時代は、平和な社会だったようですね。
 現在の社会は、100点至上主義、スペシャリスト中心、考え方に多様性が少なくなっていませんか?

厚木 もとは天台宗、鎌倉時代に日蓮宗に改宗「戒善寺」

 1282年に開創。もともとは天台宗のお寺、日源の手により日蓮宗に改宗した。
 当山は平安期天台宗の寺として草創された。 1180年 源頼朝は源氏再興の旗挙げ時。 万一陸路敗走の道として、荻野から甲州へのルートを準備した。
 頼朝は「我亡きあとはこの持仏釈迦如来を守り源氏再興を計ってくれ」と頼み、 持仏を授けて家来を荻野へ駐屯させた。釈迦如来像は近くの戒善寺に釈迦堂一宇を建立して安置された。
 1271年、依知郷に滞在中の日蓮大上人は、戒善寺に釈迦堂のある事を知り、親しく巡錫参詣された。住転日相は大上人の教化に浴し、師日源を開山に仰ぎ、山号を満星山とし日蓮宗に改宗した。

DVの加害者には社会に認められている人が多い!

 子どもを虐待する親のタイプの中には、きっちりしたタイプの親もいます。自分に厳しく、そして、自分を制御しているためか、自分の子どもにも、厳しく接してしまうようです。
 このようなタイプの人が、国家のリーダーになると、やはりプーチンさんをイメージしてしまい心配ですね。
 やはり、多様性を受け入れることが必要なのでしょう。
 別の言葉で言うと、「曖昧」、「いい加減」が大事なのでしょう。正解は一つという、100点主義は、社会に不幸をもたらす面もありますね!

鎌倉 かくれ里の稲荷が頼朝の夢に「佐助稲荷神社」

 佐助稲荷には、次のような話が伝えられています。
 源頼朝が、伊豆の蛭ケ小島に流されていたとき、夢を見ました。
 ひとりの気高い老人が現われて。
 「あなたは清和天皇に始まる源氏の直系の子孫なので、早く兵を挙げ、平氏を滅ぼして天下を統一しなければならない。その時期が来たことを知らせに来た。」
というのです。頼朝が、
 「あなたはどなたですか。」
と尋ねますと、
 「わたしはかくれ里の稲荷である。」
といって消えてしまいました。
 頼朝がその老人の教えに従って兵を挙げ、平氏を倒して鎌倉に幕府を開くことができました。

千個の理屈より、一回の実行のほうが尊い!

 行動することが大事。現在は教育が充実し、知識が先行しているため、アタマでの考えだけで、慎重になる場合が多いようです。現場・現状をつかみながら、その状況に応じて行動する経験が、少なくなっていますね。
 ネットで調べれば、AIが選び出した多くの情報があり、自分で動いて調べることが少なくなっているようです。
 ヒトの進化の原点は、状況に適応するために、遺伝子をその環境に適応できるように変化させてきました。遺伝子の進化が進んでいるのがアフリカ人のようです。認知症には、アフリカ人が一番なりにくいような体質だそうです。技術の進歩で対応してきた日本人は、体質的には古いヒトのようです。
 楽に生きていると、ヒトとしての進化は、滞ってしまうのでしょうか?

尾道 海に続く公園がある「尾道駅前海岸」

 1999年(平成11年)に駅前再開発が行われた。駅舎は古い景観を保ったが、そのほかは様相が一変し、近代的な商業施設やホールが建てられた。
 現在は、駅を降りすぐに見える尾道水道(瀬戸内海)は以前よりも広くなった。
 以前は駅舎の正面に桟橋があり、その西に魚市場があった。
 そして、2019年3月10日、新たな二階建の駅舎が開業。

 「巷に来れば憩いあり人闘みな吾を慰さめて煩悩滅除を歌ふなり」林芙美子

昔からロシア人は辛抱強く気が長い!

 ロシアのウクライナ侵略で、ロシアが勝とうと、負けようと、国民にとっては悲惨な結果しかないことを、どの程度わかっているのでしょうか。
 現在の世の中は、完全を求めすぎ、その姿勢が長くなればなるほど、自分の価値観だけでどんどん深めていってしまい、他の意見・知識を受け入れることができなくなっているようです。
 現代の教育が、一つの答えだけを正しいとする傾向があり、視野を狭めている傾向があるのでしょう。
 まだ電機冷蔵庫がない時代、小学校の教科書で「新鮮な魚の見分け方」で、魚の「目を見る」とか、「エラを見る」とか書かれていました。しかし、私の育った地域では、「魚にさわって動くかどうか」、いか・たこは「吸盤が吸いつくかどうか」で判断していました。
 正しさは、置かれた環境や状況で変わるものもあります。しっかり状況を観察し、人の意見も良く聞き、判断することが常識になると良いのですが!

座間 源頼朝在世中に坂東八番の札所に「星谷寺」

 行基菩薩が諸国教化の際当地で金光星の如く山谷に輝くのを見て、自ら聖観音の像を彫刻し、堂宇を営み星の谷観音堂として建立されたも。

 観音堂は鎌倉時代に焼失し、現在地に移されたと伝えられる。江戸時代には、坂東三十三ヶ所の第八番として崇敬を集め、1591年には徳川家康より寺領2石の朱印状を拝領している。関東以北では2番目に古いという梵鐘の他、星谷寺七不思議など古くからの言い伝えが数多くある。

質問するときの心構え!

 質問するときの心構えとして、まず「先入観を持たない」で、聞く、見る、聞く、ということでしょうか。
 現在は、学校教育の延長で、「こうあるべきだ(100点主義)」になっている傾向があるので、まずは素直になることが大事なのでしょうね。
 そして、「そうですよね」のように、相手を肯定する(否定しない)ことが大事なのでしょう!
 自己主張をすることは、それが完璧(厳格)であればあるほど、不幸な結果になることが多いようです。
 これは、子育てでも、政治でも、同じようですね!

福山 鞆 いろは丸事件の談判をした「福善寺対潮楼」

 海岸山千手院福禅寺の本堂に隣接する対潮楼は、江戸時代の元禄年間(1690年頃)に創建された客殿で国の史跡に指定されています。座敷からの海の眺めは素晴らしく、1711年、朝鮮通信使の李邦彦は「日東第一形勝」と賞賛。1748年、洪景海は「対潮楼」の書を残しています。
 また、「いろは丸事件」の談判を行った際,坂本龍馬ら海援隊と紀州藩が実際に談判を行った場所でもあります。

年齢とともに自分の美学をもつべきだ!

 老年期になったとき、このときほど視野を広げたいもの。仕事を離れたのですから、新しいもの、違った見方が出来る自由を手に入れたのですから。
 自分が習得してきた知識に執着していると、新しい分野の情報が入らなくなります。いわゆる「頑固(他人の意見を聞こうとせず,かたくなに自分の考えや態度などを守ること)」になります。しかも、忘れることが多くなってくると、より視野が狭くなります。
 自分が手に入れた経験や知識を、いろぴろな人々に提供し、その過程で接する人々から、新しい情報を手に入れることが出来れば、異なった視点が生まれてくるのですが!

鎌倉 高い道のところに置き去りにされた「成就院」

 平安時代の初期、真言宗の開祖の空海がこの地を訪れ、景勝地だったこの地で数日間に渡り護摩供・虚空蔵菩薩求聞持法(真言を百日間かけて百万回唱えるというもの)を修したという霊跡に、1219年に鎌倉幕府第三代の執権北条泰時は京都より高僧を招き、本尊に不動明王をまつり寺を建立し、普明山法立寺成就院と称した。
 坂の頂部にあり、昔の高い道のところに置き去りにされた格好。しかも高いところを桐くづした道路の対面にも墓地がある。
 順徳天皇の1219年11月21日に開かれたが、その後兵火にあい、他へ移っていたが江戸期にまた当地へカムバック。
 寺宝としては、星の井から出た明星石のほかに本尊不動尊明王、繊細なきり金文様をそなえる千手観音像。それから文覚上人荒行像と呼びならわされているユニークな小像を持っている。

自分を自慢気に語る人はまだまだ未熟!

 日本では「本当の美しさは、不完全を心の中で完成した人だけが、見いだすことが出来る」という未完の美学があります。
 自らの内的世界に耳を澄ませることができれば、人の意見を素直に聞くことが出来、「完全」ということの危うさに気がつくことが出来ます。
 聖徳太子の「十七条憲法」の最後に、「物事は独断で行ってはならない。必ず皆で適切に議論しなくてはならない。(とはいえ)些細な案件に関しては必ずしも皆で議論する必要は無いが、重大な案件については判断に過失・誤りが無いか疑い、慎重にならなくてはいけないので、皆で議論する必要があるし、そうしていれば(自ずと)道理に適った結論を得ることができる。」と、付け加えています。
 このとき、既に完成の美学に疑問を抱いていたのですね。テレビに出てくる専門家の意見は意見として、三猿の「見ざる、言わざる、聞かざる」の真逆の、「見てご猿、言うてご猿、聞いてご猿」で、世の中の正しいことを「よく見よう」「よく言おう」「よく聞こう」と、常に自分の未熟さを意識していたいものです!!

尾道 行基菩薩創建と、真言宗醍醐派の大本山「西国寺」

 西國寺は天平年中、行基菩薩創建と伝えられ、真言宗醍醐派の大本山。 ある日、尾道に立ち寄られた行脚の中の行基はその夜、加茂明神の霊夢を見て、その御告げによってこの地に開山したと言い伝えられます。
 「織田信長を呪い殺す“調伏”がこの大寺で行われた」とか。
 昔から真言密教は、どろどろとした人間の最も暗部の欲望を開放する宗教。人を生かすことも、人を殺すことも宗教の重大な役目だったと。だから信長は光秀に本能寺で殺されたのだろうか?
 と考えてみるのも面白い。

電気代はこまめな節約が大差を生む!

 ロシアのウクライナ攻撃にのため、電気代にも影響が出ています。現在は外国との取り引きが一般化しているので、致し方ないですね。この際、思い切ってもっと節電に取り組んでみませんか。
 戦争があってもなくれも、地球の温暖化への対応が求められています。電気の節約はどうしても取り組まなければなりません。世の中の変化を冷静に受け止め、工夫していくしかないのでしょう!

厚木 起立時は萬木千草地に満ちていた「宝泉寺」

 現在の地に初めて堂宇を建立したのが、曽我の小林平馬の弟、「宗珍和尚」 で、師は43年間の在住により布教を発展させ今日の基礎を築いた。
 その後6世「悟庵珊道和尚」の時(1654年、厚木市三田「曹洞宗・ 清源院」6世玉山智存大和尚を法地の開山とし、曹洞宗・宝泉寺の1世に請した。それから今日まで、布教や伽藍・境内地の整備にと壇信徒と共に歩み、19世「大満悦道大和尚」の時に客殿庫裏を、20世「大光真道」の時、現本堂のそれぞれ落慶(2001年)を迎えた。

無意識に子供にしがみついている場合がある!

 子どもに対する家庭内暴力のニュースが頻繁に放送されるようになりました。親の子育ての歴史はそれほど長くないのかも知れません。
 というのは、核家族で生活する人が多くなったのは比較的最近のことです。また、地域の繋がりがあまり見られなくなったのも、それほど昔ではありません。
 むかしは、祖母祖父や地域が子育てに多く関わっていました。両親だけで子育てをする場面は、それほどありませんでした。
 子どもにとっては、出来るだけ多くの大人達と関わりながら、大きくなっていく経験が、大きな財産になり、自分の子育ても、条件さえ整えば、同じような環境で子育てをするようになるのでしょう!

鎌倉 ぼたもち寺ともいわれる「法源寺」

 法源寺は、ぼたもち寺ともいわれ、桟敷尼(さじきに)が龍ノ口(たつのくち)の法難(ほうなん)の日蓮にぼたもちを供養(くよう)したといわれます。大町の常栄寺(じょうえいじ)にも同じ話がありますが、桟敷尼の実家が腰越だったといわれます。境内の向かって左側の建物は、「経一殿(きょういちでん)」という額を掲げる稲荷(いなり)堂です。

社会主義は、希望から、現実になったが!

 社会主義の理想は、やはり理想だったのですね。やはり「完璧は災いの元」なのですね。完璧を目指すと。思考の幅が狭くなり、他の考え方を排除してしまいます。結果的に多様性を失い、人々は「見ざる、言わざる、聞かざる」になり、自ら思考することを忘れ、言いなりの社会になってしまいます。
 「見ざる、言わざる、聞かざる」の真逆、「見てご猿、言うてご猿、聞いてご猿」で、世の中の正しいことを「よく見よう」「よく言おう」「よく聞こう」という姿勢で、社会の変化をよく見極めて、変化に対応したいものですね!