経済の成長期には、「一発勝負」を繰り返すリーダーが多かったが、経済が安定化すると、周到な準備をし、着手するタイミングを見計る必要がある。
いあゆる「正しい判断」ができるように、「ものさし」となるべき誠実な人生哲学を持つ必要がある。
これには、事実をありのままに、正確に把握する経験を積み上げるしかないんでしょうか!
7月 2026のアーカイブ
鎌倉 登り口に「星ノ井」のある「虚空蔵堂」
虚空蔵菩薩は密教で発達した仏です。果てしなく大きな智慧と福徳があるとされ、その智慧を頼って「虚空蔵求聞持法(ぐもんじほう)」という修法(しゅほう)が生まれました。この菩薩の陀羅尼(だらに)を百万遍唱えると、人並み外れた記憶力が授かるといいます。空海もこれを成し遂げ、利益を得たそうです。
また、五大虚空蔵菩薩を本尊とした息災・来福の祈願法もあります。五大虚空蔵菩薩とは、金剛界曼荼羅(まんだら)の如来が虚空蔵菩薩に変化したもので、菩薩の法力を五つに分けて五尊で表しています。
基本的なすがたは菩薩形で、蓮台に座しています。右手には智慧を象徴する剣を、左手には福徳を表す如意宝珠(にょいほうじゅ)を蓮華の上にのせて持っています。ただし、求聞持法の本尊となるときは、右手は与願(よがん)印です。
トリビア:虚空蔵菩薩を本尊とする寺では「十三参り」が行われる。数えで十三歳になると、福徳・智慧・健康を授かるようにとお参りする行事。
(『イラストでわかる「日本の仏さま」』 日本の仏研究会編より)
些細なことに対しても、ふらつかない胆力!
尾道 昔、夜毎に海上を照らした玉の岩の「千光寺」
顔の表情は感情の鑑!
座間 家康が鷹狩りの途中に寄った「宗仲寺」
夏の暑い日は体温と同じくらいまで気温が上昇!
鎌倉 女性にとって圧政の時代に救いの寺「東慶寺」

東慶寺といえば、駆け込み寺とか、縁切り寺とも呼ばれ、女性にはこの上なくありがたい男子禁制の尼寺だった。妻の方から離縁を申し出ることなど許されない封建時代にあって、ここに駆け込めさえすれば、「離婚できる」というのだから、江戸時代、多くの女性がこの尼寺に駆け込んだものもうなずける。江戸末期の150年間には約二千人の女性が駆け込んだともいわれている。江戸時代には女性の自由が極端に制限されていた時代である。そんな時代にこの東慶寺こそ、女性にとって人生をやり直せる稀有な緊急避難場所だった。
定年と同時に、妻から三行半(夫から妻または妻の父兄にあてた離別状…三行半に書く習慣からいう)をポンと渡され、おろおろする中高年の男性も多い昨今、往時の抑圧された女性達の境涯を想像するのは難しい。女性にとって圧政への時代に、この尼寺の担った役割はきわめて重要だっただろう。封建制度の矛盾のほころびを補う役割を果たすことで、ガス抜きの効果をも果たしていたのかもしれない。時代の必然の賜物だったのかもしれない。
(「鎌倉なるほど事典」楠本勝治著 実業之日本社 より)
「いやです」と言われる場合を想像!
尾道 自然石に彫られた十六羅漢「済法寺裏山」
一人ひとりの価値観が多様化した!
厚木 曹洞宗僧侶の修行道場だった「清源院」
相撲を取り始めると、意外と汗をかいていません!
鎌倉 光明寺草創以前よりこの地にあった「蓮乗院」
心というやつは、すこぶるコントロールしにくい!
福山 鞆 明治八年に官命によって社名が「沼名前神社」

現在の沼名前神社は、明治に渡守神社(わたすじんじゃ)・鞆祇園宮(ともぎおんぐう)を合祀し、『延喜式』神名帳の記載にならって「沼名前神社」と改称したものです。神社側では、渡守神社が『延喜式』神名帳所載の式内社で、同社が現在に至るとしています。現在の祭神二柱(大綿津見命・須佐之男命)は、それまでの各社の祭神です。
今から千八百数十年前、第十四代仲哀天皇の二年、神功皇后が西国へ御下向の際、この浦に御寄泊になり、この地に社の無きことを知り、斎場を設け、この浦の海中より涌出た霊石を神璽として、綿津見命を祀り、海路の安全をお祈りになられたのが、当社の始まりです。
さらに、神功皇后御還幸の折、再びこの浦にお寄りになり、綿津見神の大前に稜威の高鞆(いづのたかとも(弓を射る時に使った武具の一種)を納め、お礼をされたところから、この地が鞆と呼ばれるようになりました。
移りゆくことこそが永遠の真理!
ブッダの遺言
私はたしかに、もうすぐ死ぬ。
しかし君が悲しむことはない。嘆くこともない。
私はこれまで何度も説いてきた。
「どんな愛しい者からも、大好きな者からも、100%の確率で、生きているうち、もしくは死ぬときに、引き裂かれて別離し、すべては移ろいゆく」と。
いったん生まれたもの。存在するもの。つくられたもの。それらはすべ て壊れゆく定めにあり、「壊れるな」という無理が通ることはありえない。
この世に永遠のものなど何ひとつなく、私の命もまた永遠ならずして、もうすぐ私はそれをそっと手放す。
それはごへごく自然なこと。
すべてのものは一瞬一瞬、刻一刻と壊れて、少しずつ消滅してゆく。
だから、君はほんの一瞬もムダにすることなく、ダラダラすることなく、精進するように。
これがまもなく死にゆく私が、君に先生として残す、最期の遺言となるだろう。
尾道 向島を一周でもしてみようか!
「おひとりさま」とは精神的に自立した女性のこと!
座間 芹沢公園は太平洋戦争時、海軍の飛行機工場が!

第二次世界大戦(太平洋戦争)の時、海軍の飛行機工場ありました。そこで多くの台湾少年工が働いていました。
高座海軍工廠では、戦争末期に不足していた労働力を当時日本の統治下にあった台湾に求めました。台湾で行われた選抜試験には多くの少年が応募し、国民学校高等科や旧制中学校などを卒業した。十代の優秀な少年8,400人余りが、海軍軍属として海を渡って日本にやってきました。
少年工たちは、昭和18(1943)年から順次、現在の大和市上草柳にあった寄宿舎に入寮し基礎教育を受けた後、高座海軍工廠をはじめ群馬県の中島飛行機製作所や名古屋の三菱航空機など各地の工場へ派遣されました。その真面目な働きぶりと高い技術は派遣先の工場でも高く評価されました。
しかし戦局が厳しくなると労働環境は悪化し、中には空襲で命を落とした少年もありました。大和市上草柳の善徳寺には、亡くなった少年60名の慰霊碑が建てられています。
昭和20(1945)年8月に終戦を迎え、少年たちは台湾へ戻ることになりました。翌年の帰国までの間、多少の戦争直後多少の混乱はあったものの、少年たちは自治組織を結成し、秩序を守って整然と帰国しました。
戦後、元少年工たちは戒厳令下の台湾でも懸命に努力して故郷の発展に尽くし、また苦労した戦時を過ごしたこの地を訪れ、若き日の思い出にふける人も少なくありません。
出典:石川公弘著「二つの祖国を生きた台湾少年」「座間市史」ほかより
















