自然に反する生き方がいかに悪いか!

 生き物は、自然のリズムに合わせるように設計されています。そのためか、自然のリズムが変化すると、絶滅に至る生物も出てきます。
 ただ人間は、産業革命により、自然の変化をある程度は対応出来ているのでしょう。
 肥料など運び、水を運び、自然の環境を変えるようになっています。
 しかし、それらが行き過ぎるとどうなるのでしょうか?
 温暖化もそうですが、戦争もそうなのでしょう。
 あと何年、生き残れるのでしょうか?

鎌倉 十字架を模した紋がいまも残る「光照寺」

 光照寺の山門の梁に、十字架を模した30cmほどの紋がいまも残っている。もし、この十字架を模した紋が、隠れキリシタンの遺物だとしたら、そのキリシタンたちはこの鎌倉で、どんな生活をしていたのだろうか。想像するだけでも興味深い。
 光照寺は時宗の寺で、正式には西台山英月院光照寺である。十字架紋のある光照寺の山門は、箱根湯本の早雲寺の末寺だった東渓院山門だったが、同院の廃寺により、山門が光照寺に移されたという。
 東渓院は北鎌倉の北西の大地にあったというから、光照寺とはそれほど離れていないところにあったといえようか。
 臨済宗のお寺だった東渓院は、九州・大分竹田藩の藩主だった中川氏の娘の菩提所として建立されたもの。キリシタン大名のいた九州に領地を持っていた中川氏が、キリシタンと関係があっても不思議ではない。そう考えると十字架を秘した紋を山門に掲げたのもうなずける。
(「鎌倉なるほど事典」 楠本勝治著)

自分に不利でも「いや」と言わない……!

 災害が頻繁に起きています。災害で不幸な大人たちが幸せになれない最大の原因は、自分で幸せになろうとしないところのようです。
 そのようにならないため、やはり支援が必要です。
 まず、安心してもらう環境作り、それができると、次に自立できる環境づくり、すると自分で幸せになろうという意欲が湧いてくるようです。
 災害が起きる前から、そんな環境があると、より自立心が湧きやすいのでしょうね!

尾道 旧市街で唯一名前がある坂?「蓮花坂」

 旧市内でもっとも古い東西を結ぶ本道とされていた蓮花坂。
 尾道は坂のまちとして知られていますが、坂道のほとんどにに名前がありません。

 ひとつだけ例外の坂道があります。それが「蓮花坂(れんが坂)」といい、西国寺下から大山寺下まで、愛宕山の中腹を上っていく坂道です。

 「坂」という文字は、その原点に「土のイメージ」があり、崖に手をかけてよじ登るという意味があります。
 坂道の途中に石段があると、坂道に「○○坂」と名前をつけるには抵抗があったのでしょうか?

人と出会えば、何かが生まれる!

 「人と出会う」ことを、意識して出来ることは、特に歳をとると大切です。
 しかし、自分に固定観念があったり、自分を飾り立てたりする人には、その場の付き合いは出来ても、普通の付き合いは難しいようです。
 特に都会暮らしに慣れてしまうと、かなり意識を深くしないと難しいですね。
 都会から地方に移る人は、なんとなく気がついているのでしょうね!

厚木 かっては石神社と呼ばれた「荻野神社」

 荻野神社は、かつては石神社と呼ばれ、「新編相模国風土記稿」によれば、自然石を御神体とし、牛頭天王(ごずてんのう)を合紀し、荻野三村の鎮守で社領三石の御朱印は天正19年(1591)に附されたとあります。また銀杏樹(いちょう)は神木であると記されています。
 厚木市内ではもっとも古く、かっ規模の大きい社殿です。桁行(間口)9尺、梁行(奥行)6.7尺で内部は前後二室に分かれ、前室は板敷、後室は土間のままです。
 神社に残された、貞享4年(1687)銘の横長の板には本殿建立に係る寄進者及び建築に関する詳細な記録が書かれています。建築の細部の手法は、貞享4年という古い年代にもかかわらず先進的で装飾も大変豊かで、当時の江戸の作風を見事に消化しきった建築といえます。また大工頭領は飯山村の西谷半右衛門と記されています。
 「文化財散策ガイドあつぎ」(厚木市教育委員会発行)より

「世界経済」に協力するか、または逆らうか!

 産業革命は、人類を幸せにした、と何となく思っていました。
 当時は、新しい燃料の石炭が大量に消費できるようになり、蒸気を使うなど、それまでには手に入らなかったエネルギーを手に入れました。
 しかし、石炭が消費で少なくなり、石油に移行しました。
 これは、むかし森林を伐採し、燃料に使い、森林は草原や砂漠になってしましました。
 このような石炭や石油の採掘は、何かしら地球に影響してこないでしょうか?
 最近増えている地震とは関係がないのでしょうが、何かしらの災害につながらないのでしょうか?

鎌倉 鎌倉時代に広る熊野信仰「熊野神社」

 鎌倉時代、後鳥羽上皇は建久九年(1198)に十九歳で譲位した年から熊野御幸をはじめて28回行った。その後も亀山上皇まで多くの皇后や女院の御幸があった。
 皇族や貴族だけではなく、平惟盛(たいらのこれもり)などの武士、足利義満(よしみつ)の側室北野殿などの女性も参詣した。平安時代後期から阿弥陀信仰が強まり、浄土教が盛んになると、熊野の地は浄土と見なされるようになった。
 さらに、朝廷の支持を得た熊野信仰は国家安穏の神としてだけでなく、修験者の病気快復の祈祷によって無病息災、延命長寿の神として全国に広まり、熊野神社が各地に勧請された。

将来、食糧難が起こるのか?

 円安で、食料などの生産は国内でしたら、と思う人が増えているt思われます。
 むかし言われていた「鎖国」にしたら、と思ってしまいます。
 石器時代から縄文時代の大昔から、食料や水が豊かだこそ日本にヒトが住み始めたのでしょう。
 しかし、現在は食料や肥料も輸入に頼っています。
 そのためか、病気も昔と違っている部分もあるようです。
 今でも、田舎苦死は暮らしは、地産地消がある程度残っているのでしょう!

尾道 干満潮の差は3mを越る「昔の船着き場」

 「昔の船着場」が再整備されています。

 瀬戸内海中央部の干潮と満潮の差は3mを越えます。そのため船着場は階段状に作られており、毎日2回づつ干潮と満潮があり、海面の高さの変化に応じて、船と船着場(岸)に板をかける段を変えて、人が荷の積み卸しをしていました。

 このあたりは瀬戸内海の中央部で、海水が激しく混ぜ返されます。このため、海の栄養分が行き渡り、しかも18kmにもなる潮流が味の良い海産物を生み出します。料理人の中には備後地方の海で採れた魚が一番おいしいと言われる方もおられます。(ただし、小魚が多く、骨がしっかりした魚が多いので、子どものときから食べ慣れていないと食べにくいのですが!)
 しかし、下水処理が進みすぎ、海の栄養分が不足し、海産物に変化が起きています。

 このような船着場が残っていると、津波で動力が失われクレーンなどの荷揚げ装置が動かなくなったときでも、人力で荷揚げができますね。

二人の名医、それは、発熱と食欲不振!

 昔から、権力者が「不老不死」をもとめたと、特に中国の歴史にあるようです。
 現在も、いろいろと研究が進み、そのうち実現すると思われている。
 しかし、「不老不死」が実現すると、人口がもっと増え、食料や燃料が不足してしまいます。
 食べなくても生きていける人類が生まれるのでしょうか?
 技術の発達は、人類にとってプラスなのかな?