行基菩薩が諸国教化の際当地で金光星の如く山谷に輝くのを見て、自ら聖観音の像を彫刻し、堂宇を営み星の谷観音堂として建立されたもの。
観音堂は鎌倉時代に焼失し、現在地に移されたと伝えられる。江戸時代には、坂東三十三ヶ所の第八番として崇敬を集め、1591年には徳川家康より寺領2石の朱印状を拝領している。関東以北では2番目に古いという梵鐘の他、星谷寺七不思議など古くからの言い伝えが数多くある。
古くから「星谷寺の七不思議」(銅鐘・星の井・楠の化石・咲き分け散りの椿・観音草・根不断開花の桜・下りの紅葉)の言い伝えがある。
1867年 星谷寺観音堂の杉並木(今の大門通り)伐株。
1877年10月8日 星谷寺観音堂の境内に競馬場が開設。
1928年3月21日 入谷星の谷の大火。全焼6戸。星谷寺観音堂の仁王門消失。
1958年6月17日 星谷寺の免鐘が県重要文化財に指定。
星の谷観音堂が坂東八番の札所になったの源頼朝在世中のことと思われます。
この頃は今でも本堂山と呼ばれている400mほど北東の丘の中腹にあったと伝えられていますが、いつの時代か、相模野の野火が延焼して焼失、現在の地へ移ったといわれています。
戦国時代には北條氏の保護を受け、小田原から府中へ人至る街道上の宿泊所としても利用されましたが、徳川氏はあまり重要視せず、朱印地(非課税の領地)も三石しか与えませんでしたが、正保国図(元年・1644年)などには北相模で唯一(随一)の社寺として観音堂が書かれており、民衆の間には相当重視されていたものと思われます。
江戸時代に入り、天下が太平になると、民衆の間にも百ヵ所観音、あるいは、坂東三十三ヶ所参りが流行しました。市内で最古の百ヵ所参りの記念物は、星の谷観音堂にある貞四年(1687年)の額です。
(「座間むかしむかし 第二十六集」 座間市教育委員会 2004/3/30 発行 より)
寺院の大門に立ち、伽藍を護る仁王。もともとは、執金剛神(しゅこんごうしん)という、釈迦を守護する独尊でしたが、しだいに二体一対で安置されるようになりました。
お経にある千二人の王子の話に登場。
千二人の王子のなかから千人が仏となったとき、法意という王子は執金剛神に、法念は梵天になり、仏になった兄弟を護ることを誓ったそうです。
お寺の山門に怒った顔をして立っている仁王像は、ふつうペアをなしており、一方は口を大きく開き(それを「阿(あ)」形(ぎょう)という)、もう一方は口をへの字に結んでいる(それを「吽(うん)」形(ぎょう)という)。
仁王は金剛力士とも呼ばれ、仏法を守護し邪悪をしりぞけるために寺の入口に立っている。一体の仁王像もあるが、ペアの仁王像では一方は「阿」形、もう一方は「吟」形の姿で表現される。
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嘉禄三年紀梵鐘(国重要文化財)。関東以北では2番目に古いという梵鐘。鐘を撞く際の撞座が一箇所のみであることから、江戸時代より「奇鐘」として有名でした。優雅な平安時代の面影を残すとともに、鎌倉時代の特徴も備え、金工史上重要なものです。
銘文中の人名は全てが明らかてはありませんが、「源朝臣信綱」は、有名な近江源氏の総本家を継いだ佐々木信綱であることが当市文化財保護委員会の調査によって明らかにされました。