鎌倉幕府滅亡後、後醍醐天皇が足利尊氏に命じ(実質の開基は足利尊氏か)、北条一族の霊を弔うため、もと北条高時邸に宝戒寺を建立させ、勅命により円観慧鎮を開山としました。1335年創建。
国宝的人材を育成、修行させるための円頓大戒(金剛宝戒)と天台密教の道場としての「戒壇院」が置かれました。
1455年享徳の乱(鎌倉公方・足利成氏と関東官僚の上杉氏との戦い)のさなか、1455年に破壊され、仏像や経巻などを紛失。その後、小田原北条氏や豊臣秀吉、江戸時代になると、天海僧正が関東地方の天台律宗の本寺として、徳川家康にこの寺の維持、継承を懇願し復興しました。
科学や医学が発達する前は、天災や疫病は多くの死亡者を出していました。それらの原因は、自分たちが殺した敵方の“たたり”だと畏れ、それを供養するため、お寺を建てていました。
「萩の寺」と佳名をもつ。
開山は円観(弘安4ー正平11(延文元)(1281-1356)年)、慈威和尚ともいう。後伏見・花園・後醍醐・光厳・光明の各天皇に戒を授けたことから、五代国師の号を与えられくいる。宝戒寺開山、坂本西教寺中興開山。興国和尚の門に入り円頓戒を承けた。後醍醐天皇に請われて北条氏を呪詛して幕府に捕えられたが、北条氏滅亡後許されて京都法勝寺の住持となる。(大三輪)
[文献」『市史』総説編
「鎌倉大聖天」の標柱が掲げられています。
八角石の参道
このあたりは、鎌倉時代の執権であった、北条一族の中でも「得宗家(とくそうけ)」と呼ばれる北条氏本家の屋敷があったところといわれくいます。
1333年(元弘3年)、新田義貞の鎌倉攻めにより、北条氏は滅んでしまいました。その後、1335年(建武2年)に北条高時をはじめとする北条一門
の霊をなぐさめるため、後醍醐天皇が足利尊氏に命じてこの地に寺を建て、宝戒寺名付けました。
鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より