座間 齋藤龍興(道三の孫)の遺臣四名が氏神「日枝大神」

 創建者は織田信長に敗れた美濃国(岐阜県)の齋藤龍興(道三の孫)の遺臣四名で、この地を開拓し祭神を四ツ谷の氏神として祀ったと伝えられています。
 宝暦十三年(1763)に火災にあい、七十八年後の天保十二年(1841)に再建、棟札に「山王大権現」と記され、手水石や諏訪社の祠の奉納年号から見ると、社域もこのころから整えられてきたようです。
 明治二年(1869)、「山王大権現」から「日枝神社」に改称、祭神も「大山咋命」に変わり、同六年には村社に列され、同十八年八月に再遷宮の記録があります。

ダラダラ世界の中で過ごしてきた!

 サラリーマンの仕事ぶりは、むかしからダラダラした働き方、という印象がありました。能率重視の社会では、この働き方は批判的に見られた来ました。
 能率を重視し、短時間で仕事をする方法を見つけ、空いた時間を有効に使う、ということが大前提です。
 空いた時間、有効に使えていますか? ゲームをなどしていては能率アップの意味はありませんね。
 大学生もネット授業を早送りで見て、空いた時間をどのように使っているのでしょうか? 
 ダラダラ仕事でも、何かしら考えつき、何かしらのコミュニケーションをしたりした方が、メリットがあるかも知れないですね。
 能率アップは、新たに生まれた時間を有効に使った、ということが必須条件ですね!

福山 鞆 かわいい石仏立ちが「正法寺」

 当寺は慶長三年(1598年)京都・臨済宗東福寺派の守意を開基とし、元和九年(1623年)深溪和尚(しんけいおしょう)により妙心寺の末寺として再興されました。
 深溪和尚は布教とともに庭造りにも熱心で、奇木や珍石を多く集めて庭に数奇を凝らしたといわれ、江戸時代には朝鮮通信使の常宿としても利用されました。
 本堂の掲示:「1日一度は静かに坐って身(からだ)と呼吸を整えましょう。人間の尊さにめざめ、自分の生活も他人の生活も大切にしましょう。生かされている自分を感謝し、報恩の行を積みましょう。」
 ロシアのプーチンさんに読んでもらいたいですね!

どうして人間は戦争を起こすんだ!

 「どうして人間は戦争を起こすんだろうね?」、それも圧倒的に男性が。
 今日も安倍元首相が銃撃され亡くなりました。犯人は男性。最近の不可解な犯罪も、犯人の多くは男性ですね。どうしてなのでしょうね?
 男性は考え方に幅がなく、1つの方向になりやすいようです。特に100点主義の教育で、いつも答えは一つしかないと思い込んでしまう傾向にあります。でも、答えというものは一つではありません。
 私は、小学校の家庭科で「新鮮な魚の見分け方」を習ったとき、「魚の目やエラを見て見分ける」と習いましたが、住んでいたところでは「魚に触って動くかどうか、タコやイカは吸盤に触って吸い付くかどうか」で新鮮かどうか見分けていました。どうして教科書にヘンなことが書いてあるのだろう? と思いました。
 答えというものに、「曖昧」を許容していれば、社会人になっても、一つの考え方に固執することが少なくなるのではないでしょうか!

鎌倉 忍性が熊野本宮から勧請した「熊野神社」

 もとは新宮社と称し、1269年(文永六年)忍性が熊野本宮から勧請したと伝えられ、鎌倉時代、極楽寺全盛時より熊野新宮と号し、極楽寺の鎮守社として広く神域を領して鎌倉幕府の崇敬を受けていた。
 祭神は、日本武尊(やまとたけるのみこと)、速玉男命(はやたまのおのみこと)、素斐鳴命(すさのうのみこと)、建御名方命(たけみなかたのみこと)である。
 極楽寺一帯には、もともと熊野新宮のほか、八雲神社と諏訪明神社の二社があったが、関東大震災で倒壊したため、昭和三年に当社に合祀された。

頭を使う仕事は朝にまとめて行う!

 ホモサピエンスの脳は、生物としての必要な機能を越えた大きさになっています。そして、脳はエネルギーを多く消費してしまいます。
 SDGzの視点から考えると、ホモサピエンス以外の生物から見ると、最もSDGzに反する生き物です。そうであるならば、全ての生物に住みやすい環境づくりに貢献する必要があるのでしょう!

尾道 もとは向島にあった信行庵が移転「信行寺」

 1214年に浄土宗第二祖の聖光が開いた寺で本尊は阿弥陀如来。元は聖光が向島の三ツ石に一草庵を結んで住んだのがはじめである。
 1596~1614年に住職称住がこの草庵で四十八夜念仏修行をしたとき、その満願の暁方、阿弥陀如来の来迎に逢い、結集と共に入水往生したが、その時結集の中の一人は現世に残ってこの庵を相続せよというので、行欣が残ることになり、1603年現在地の下の山陽線路上の辺に移った。
 1891年山陽鉄道が開通したので、堂舎を現在地に移した。

 1214年に浄土宗第二祖の聖光が開いた寺で本尊は阿弥陀如来。元は聖光が向島の三ツ石に一草庵を結んで住んだのがはじめである。
 1596~1614年に住職称住がこの草庵で四十八夜念仏修行をしたとき、その満願の暁方、阿弥陀如来の来迎に逢い、結集と共に入水往生したが、その時結集の中の一人は現世に残ってこの庵を相続せよというので、行欣が残ることになり、1603年現在地の下の山陽線路上の辺に移った。
 1891年山陽鉄道が開通したので、堂舎を現在地に移した。

ひどい体験をすると心に傷を残す!

 「失敗は成功のもと」(失敗すれば,方法の誤りなど失敗の原因もわかるので成功へ一歩近づくことになる)なのですが、一番の問題は、やってみないこと。
 そして、考えもしないうちに、やってしまうこと。
 「失敗は成功のもと」にするには、行動を起こす前に考えること。それが出来ていれば、失敗の原因を追求でき、成功のもとになるのですが、これはなかなか出来ていないものです。
 でも、失敗後の状況はつかめるもの。すくなくとも、失敗後の状況はしっかりつかんでいきましょう!

厚木 鎌倉幕府の御家人安達藤九郎盛長が勧請「八幡神社」

 八幡神社は三田村の鎮守です。「新編相模国風土記稿」によれば、安達藤九郎盛長が勧請したと言い伝えられているとあります。本殿の規模は桁行(問口)6尺、梁行(奥行)5尺を測り、一問社流造としては荻野神社に次ぐ大きさです。
 建築年代ぽ残された棟札(むなふだ)から元禄3年(1690)とみられます。
 朱塗りを基調として、彫刻や組物などは極彩色としています。
 元禄3年(1690)の八幡宮再興棟札には大工として、三増村((愛川町三増)の高木半左衛門、宮本清兵衛の二人の名前が記されています。また「進神ノ大施主 川口長三郎」とあり。これは三田郷の領主です。

「ホンネ」と「タテマエ」を使い分ける日本!

 日本社会では、ホンネとタテマエを使い分けることが要求されます。若者もそのように行動しているようです。しかし、自分を知った上で、ホンネを正確に把握しているのでしょうか?
 自分の要求を、単純にホンネと考えているのでは? と思ってしまいます。「カッコいい」とか、「見栄えが良い」とかは、世間の目を目を意識した行動で、これは自分のホンネではありません。
 ただし、自分のホンネといっても、「欲」「名誉」「権力」などへの欲求は、自分のホンネから除外しての話しです!

鎌倉 江戸期に当地へカムバック「成就院」

 縁起によれば、弘法大師・空海が護摩を焚いて修行した跡に北条泰時が開いた寺という。時に順徳天皇の1219年11月21日。
 平安時代の初期、真言宗の開祖である弘法大師空海がこの地を訪れ、景勝地だったこの地で数日間に渡り護摩供・虚空蔵菩薩求聞持法(真言を百日間かけて百万回唱えるというもの)を修したという霊跡に、
 1219年に鎌倉幕府第三代の執権北条泰時は京都より高僧を招き、本尊に不動明王をまつり寺を建立し、普明山法立寺成就院と称した。
 1333年新田義貞の鎌倉攻めの戦火にて寺は焼失した。
 兵火の後、他へ移っていたが江戸期にまた当地へカムバックした。