当社の創建は、元亀年間(1570~1573)と伝えられています。
創建者は織田信長に敗れた美濃国(岐阜県)の齋藤龍興(道三の孫)の遺臣四名で、この地を開拓し祭神を四ツ谷の氏神として祀ったと伝えられています。
宝暦十三年(1763)に火災にあい、七十八年後の天保十二年(1841)に再建、棟札に「山王大権現」と記され、手水石や諏訪社の祠の奉納年号から見ると、社域もこのころから整えられてきたようです。
明治二年(1869)、「山王大権現」から「日枝神社」に改称、祭神も「大山咋命」に変わり、同六年には村社に列され、同十八年八月に再遷宮の記録があります。
昭和九年(1934)五月、社殿再建と共に神楽殿も完成し、外郭も整ったところで、当時の東京府麹町の日枝神社より新たに分霊し、社号も同年十月に「日枝大神」に改め現在にいたっています。
1841年に再建した際に、棟札に「山王大権現」とありますが、「山王」という文字の意味は天台教義を表します。
〔山王〕の山の字は縦が三画、横が一画で、王の字は横が三画、縦が一画。天台宗の教義である「三諦(締は真理)即一」の理を表すといわれています。あらゆるものごと〔諸法〕の本質は空であり〔空諦〕、空であるが仮に存在する〔仮諦〕、諸法は空でもなく仮でもないことを中の存在〔中諦〕といいます。この〔三諦〕が完全に融合し、ひとつになる〔三諦即一〕ところに真実の姿がある、と説いています。これは〔一心三観〕、〔一念三千〕の天台の教義を山王明神が託宣したものだといいます。
比叡山の守護神として位置づけられて以来、天台宗の広がりにともなって、日吉大社は日本を代表する神社になっていきました。
比叡山の麓に鎮座する日吉大社(滋賀)では、、サルを神の使いとして崇めています。比叡山には古くから多くの猿が生息していたが、里へ降りては田畑の作物を荒らすなどの狼藉を働くことがしばしばあったと言う。そこで人々は猿害を避けるため、日吉大社の祭神であり、比叡山の地主神でもあった大山咋神(おおやまくいのかみ)の使いとして逆に敬うようになったと言いわれています。
こうして大山咋神の使いとなったサルは「神猿(まさる)」と呼ばれ、いつしか厄を去る魔除けの象徴として信仰を集めるようになりました。
京都御所は大名屋敷などに鬼門除けのサルが置かれているのは、こういった理由によります。
古くから猿は魔が去る「まさる」と呼ばれ、厄除け・魔除け、農業守護、また多産でお産が軽く、集団生活をしてとくに子どもへの愛情が強いことから、安産・子育ての守護神として信仰されてきました。