多宝谷山 妙傳(伝)寺(日蓮宗)
扇ガ谷2ー21-3  標高 29.0m
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 道路拡張によって東京都文京区白山にあったお寺を1974年2月に移転
 紀州徳川頼房の祈願所として創建、戦災によって本尊、寺宝、寺史などを消失している。

 ここにはかって室町時代まで、律宗の多宝寺があった。裏山には石の造形物があるが、道が整備されていないようです。

 旧本尊は妙見北辰菩薩、現在は日蓮坐像。妙見北辰菩薩は 1945年(昭和20年)の戦災で焼失してしまったとのことです。妙見北辰菩薩は、源頼朝や日蓮が崇拝し、日蓮宗の寺院によくみられます。
 旧本尊は妙見北辰菩薩は平安時代ごろから信仰されており、平将門が信仰し、その霊験によって勝利を納めたが、将門の新皇宣言に嫌気をさした妙見北辰菩薩が将門を離れたので将門は滅び、その後妙見北辰菩薩は平良文一門につき、その霊験により畠山・千葉・上総などの坂東八平氏を生んだとされています。特に千葉氏は妙見信仰で知られています。

 ずっと昔はここは極楽寺と同じ律宗の多宝寺と言うお寺があり、裏山には巨大五輪塔があり、その中には「多宝寺覚賢長老遺骨也」がありました。
 その多宝寺については正確なところは判りませが、山号は扇谷山。開基は鎌倉幕府連署・北条重時の子業時とされています。

 開山は忍性で1262年(弘長2年)、忍性はその5年後に極楽寺に移っています。覚賢はその後の住職だったのかもしれません。学堂のある学山、要するにお寺大学院。当時極楽寺・称名寺と並ぶ、西大寺系律宗の拠点寺院であったそうです。

 あと判っているのは1302年と1310年に火災で延焼。その後は「享徳日記」に記載があり、1452年にはまだ存続していたらしいと言うだけでその後の記録はありません。
 歴代住職の供養塔。
 北極星の化身としての妙見信仰が日本に入ってきたのは、紀元五百~六百年代といわれるが、当初は渡来人の多い南河内辺りでの信仰で、次第に畿内などに広まっていったらしい。しかし民間信仰だったため、延暦十五年(七九六)に妙見信仰最大の行事「北辰祭(妙見祭)」が風紀の乱れとして禁止されたこともあった。
が、密教が入ってくると貴族の間では妙見法が盛んに修法され、鳥羽法皇の眼病平癒のために聖昭上人が妙見法をしたという。妙見法とは星に除災求福を祈る行法、法会で、星まつり、あるいは星供、星供養会とも言う。
 これは、真言宗の大切な法要の一つで、堂内に




北斗曼荼羅を掲げ、妙見大菩薩を本尊として妙見法(北斗七星法)を修するものだが、妙見菩薩は国家を守護するとされ、平安時代から諸寺院で行われる他、宮中の正月四方拝や民間の行事にも取り入れられたという。
 武士の間では、妙見さまは産土(うぶすな)神の八幡神を守護神としているとされて広まり、中世には軍神として妙見信仰が広まった。かつて平将門(たいあのまさかど)が、常陸(ひたち)(茨城県)の蚕飼川(こかいがわ)で、叔父の良兼と戦った時、将門の前に妙見が現れ、川を瀬踏みして危機を救ったとか、再び合戦となったときに
関東地方に移住させたことにはじまる。帰化人の持ってきた妙見信仰と、この地にあった八幡信仰が習合して、千葉一族の守護神となっていったのだった。
 妙見菩薩は、法華経の行者を守護すると考えられ、密教だけでなく、日蓮宗に取り入れられて民間で信仰が盛んになった。さらに江戸時代に入ると、妙見さまのご利益本が盛んに出版され、妙見菩薩の功徳と霊験は人々の間により身近になって、商家や町人に諸願成就、商売繁昌の仏さまとして信仰を集めるようになったのである。
(「謎だらけ日本の神さま仏さま」山下昌也著)
 三界萬霊塔。
敵の矢を拾い、敵に射掛けて勝利に導いたという伝説があった。
 また、旗揚げした頼朝が石橋山で敗れて房総に逃れた時、出迎えた桓武平家の千葉氏の留守宅が襲撃され、下総の境「境河」まで敗走したところ、そこに童子が現れて飛んでくる矢をみな受け取り、そこへ
上総からの援軍が到着し大勝利を得たという。千葉氏の妙見信仰は有名だが、そもそも、妙見が武士の守護神といわれるようになったルーツが千葉氏である。
 妙見信仰が関東地方に伝わったのは、天智(てんじ)天皇の666年から霊亀(715~716年)に近畿、駿河、甲斐、相模などに住んでいた帰化人を










 やぐらの中の延命地蔵尊と右にもお地蔵さま。
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