浄土真宗 松江山明圓寺
浄土真宗 松江山明圓寺  標高:12.2m
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 承久年間、沼隈郡山田村に建立された小坊が元とされています。当初は天台宗を奉じていましたが、1238(歴仁元)年、山南村光照寺の明光上人の導きで真宗に改宗しました。

 鞆の浦への移転は文明年間、山田村の領主に日蓮宗への改宗を迫られ、これを拒否した直後のことです。戦国時代末期にあった織田信長と本願寺の戦い(石山合戦)では、住職の長存が備後門徒を集め、「進者往生極楽、退者無間地獄」の旗を掲げて奮戦し、その後は東本願寺設立にも尽力しました。 「松江山明圓寺」の寺号はこれらの功績により、教如上人から授けられたものです。
 ここは室町末期の石山合戦(1570~1580年)で、住職が毛利軍と共に織田信長と戦ったといわれるお寺。福山藩との結びつきも強く、下部が袴(はかま)型の正式な鐘楼には藩から寄進された梵鐘も残っている。
 親鸞の人間洞察は、「どんな人聞にも、どこかに人殺しの血が流れている」というもの。人を殺すことはいけないと戒めていても、何かの契機で人殺しに走ることもあると、人間の奥深くにある「悪」を洞察しています。そして、そのような悪人が阿弥陀さんのおかげで救われるのだから、これはたいへんありがたい。さらに親鸞は、「念仏を唱えれば、聞違いなく極楽浄土へ行ける。ただし、極楽浄土からまた帰ってくる」と説き、これを往相廻向、還相廻向の「二種廻向」と呼びました。そして「自分は人間を救うための人生を送り、死後、人間を救うためにまた帰ってくる」といいました。




    下部が袴(はかま)型の鐘楼
親鸞聖人

 親鸞が自分は「罪悪深重(ざいあくじんじゅう)の凡夫」というように、非常に自分を深く見つめ、自分の罪深さを表明していきます。
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