鎌倉時代の1282年 鎌倉幕府執権北条時宗が元寇(文永の役)戦没者(両軍の兵士)追悼のため中国僧の無学祖元を招いて創建した。北条得宗の祈祷寺となるなど、鎌倉時代を通じて北条氏に保護された。
文永の役(1274年)に続いて、弘安の役(1281年)も起き、弘安の役での戦没者の慰霊も円覚寺の役目となった。
円覚寺の経営を主に支えた荘園は、尾張国富田庄(名古屋市)で、円覚寺の寺僧が派遣され海上交通を利用し結びついていた。
この寺は度重なる兵火や失火等の災害によって多くのお堂を焼失した。現在ある建物は1703年(元禄)の大地震以降再建されたものです。
今の時代で言えば、中国(元)に攻められ、それと戦い亡くなった人を、中国(南宋)の僧侶を招いて祈祷寺を創る、なんとなくスッキリしませんね。
しかし、元の時代、同じ中国でも別の国と認識していたのでしょう。そのため、黄河文明(南宋)亡命者の無学祖元が起用されたのでしょう。
元と日本の戦争は、鎌倉幕府は外交経験が少なく、元に滅ぼされた南宋亡命者の情報に頼り、恨みを晴らしたい亡命者の意見で、元と戦うことになったのでしょうか。(鎌倉時代になっても外交は京都の朝廷が主に担当していた。)
円覚寺は山号を瑞鹿山(ずいろくさん)という臨済宗(りんざいしゅう)の寺で、開基は執権北条時宗で、開山は中国の宋の時代の僧である無学祖元(むがくそげん)です。円覚寺の寺名は、1277年(建治3年)、時宗が建長寺にいた蘭渓道隆をむかえて寺を創建しようと現在の寺域を掘ったところ、土の中から石櫃(いしびつ)という石でできた大型の箱がみつかり、その中に「円覚経」が納められていたことに由来するという話が伝えられています。また、山号については、祖元が開堂の日、ここで初めて人々に説法をしていると、白い鹿が出てきてー緒にそれを聞いていたので、これはめでたいことだと山号を「瑞鹿山」とつけたそうです。境内奥の仏日庵の前に、鹿が現れたと伝えられろ白鹿洞(びゃくろくどう)という祠(ほこら)があります。
祖元は、時宗が道隆(どうりゅう)の死去により使者を派遣して招いた名僧です。祖元が中国の温州(うんしゅう)能仁寺(のうにんじ)で、兵士に首を切られそうになったとき、少しも動じなかったという話は有名です。1279年(弦安2年)鎌倉に着き、建長寺(けんちょうじ)の住職となり、1282年(弘安5年)
12月8日、元(今の中国)との戦いで戦死した人の霊を、敵味方の区別なく慰めるために建てられた円覚寺の開山となりました。
鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より
円覚寺の規模は、1283年(弘安6年)には、正式な僧が100人、行者(あんじゃ)・人工
(にんぐ)が100人、その他の人が68人の合計268人でした。行者・人工とは、禅宗の寺で使われていた人達のことで、寺の様々な仕事をしていました。また、そのとき円覚寺で一年間に使う米の量は約1400石(約210
t)、銭は約1700貫文でした。このほかに寺の領地からは、大豆・まき・炭などが運ばれていました。
1323年(元亨3年)、を望が完成し、1334年~1335年(廷武年間)に描かれたとみられる「円覚寺境内
家康(とくがわいえやす)は、翌年円覚寺の所領を認めましたが、150貫ほどでした。当時の鎌倉では、領地から。取れる米などの年貢をお金に換算(かんさん)し、その納める金銭の量で土地の面積を表しました。これを「貫高」といい、「貫」「文」を単位としていました。その後、江戸時代もあまり変わりはありませんでした。
幕末・維新の混乱で寺領も失い僧侶が坐禅などの修行をする道場である僧堂も閉じられましたが、1875年(明治8年)、今北洪川(いまきたこうせん)により再興され、関東屈指の禅道場として再生しました。
絵図」によれば、総門・山門・仏殿・法堂などが一直線上に並び、総門と山門との両側には、東司(とうす)(便所)と浴室があり、山門と仏殿の左右には、僧堂と庫裏が並んで中国風に配置されていました。また、このころの塔頭の数は、40を超えていました。
1333年(元弘3年)に北条氏が滅亡した後も、
北条氏に招かれ円覚寺の住職にもなっていた夢想礎石(むそうそせき)が、後醍醐(ごだいご)天皇や足利氏の信任も厚かったため、寺の勢いは保たれましたが、室町時代には、1374年(応安7年)をはじめとして火災がしばしばあり、しだいに衰えていきました。
1590年(天正18年)、関東に入った徳川