伝衣山 黄梅院
鎌倉市山ノ内409  標高:58.3m
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 第十五世夢窓疎石(夢窓国師)の塔所。本尊:千手観音菩薩。

 円覚寺がある谷の一番奥に黄梅院があります。

 山号は伝衣山(でんねさん)。本尊は千手観音像。五山文学で有名な造庭で有名な夢窓疎石の塔所です。疎石は建治元年(1275)生まれ、京都南禅寺に入寺した後、鎌倉瑞泉寺を開き、元徳元年(1329)に円覚寺五十三世として入寺。後醍醐天皇や足利尊氏の帰依を受けました。観応二年(1351)に死去、臨川寺に葬られましたが、後の文和三年(1354)に弟子の方外宏遠によって円覚寺内にも塔所が造られました。生前、黄梅院は夢窓派の活動拠点となり、また応安元年(1368)に足利尊氏の子、二代将軍足利義詮の遺骨を分骨したことで、さらに発展しました。しかし、足利氏の外護を受けていた時代が終わると、衰微していきました。
 中国から日本へ渡来した無学祖元は、元の襲来を前にした北条時宗に、一喝を加えて励ました。

「莫煩悩(まくぼんのう)」=「煩悩する莫(なか)れ」と。

 現在の情況をありのまま見ることを怠り、ありもしない妄想にふりまわされてノイローゼになることを戒めた。
 元軍20万の妄想を払うと、作戦がはっきりしてきた。といいわれています。
 二度目の元寇は、台風で元の船団は大被害を受け、撤退しました。もっとも、元軍のうち約10万人の江南軍は華南地方の移民団で、もともと元に制圧された地域の民だったそうです。
 彼らは占領地で田畑をひらくため、農具や種もみまで用意していましたが、あまり実戦力とはいえず、しかも、元軍はずっと狭い船内ですしづめ状態。身動きがとれず、食料も乏しく、エコノミークラス症候群になっていてもおかしくない状態でした。
 ときの執権・北条時宗は元寇を退けたものの、異国相手では没収できる土地がなく、手柄のあった者にもわずかな恩賞しか与えられませんでした。このため、多くの武士が幕府に反感を抱くようになり、鎌倉幕府は衰退へと向かっていくのでした。
 山門から境内へ
 無学祖元は、時宗が道隆(どうりゅう)の死去により使者を派遣して招いた名僧です。祖元が中国の温州(うんしゅう)能仁寺(のうにんじ)で、兵士に首を切られそうになったとき、少しも動じなかったという話は有名です。1279年(弦安2年)鎌倉に着き、建長寺(けんちょうじ)の住職となり、1282年
(弘安5年) 12月8日、元(今の中国)との戦いで戦死した人の霊を、敵味方の区別なく慰めるために建てられた円覚寺の開山となりました。


 聖観音堂(聖観世音(しょうかんぜおんぼさつ))。

 幕には、北条氏の「三鱗」の家紋ではなく、足利家の「丸に二引き両」の家紋が。
 聖観世音像。安置されている聖観世音像は中国から請来したとされています。




 山門の彫刻
 境内にある観音さま。
仏日庵開基廟へ:
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