南林山釈迦院 圓福寺(真言宗)
福山市鞆町鞆  標高:16.6m
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 当寺院の建つ場所は大可島といい、鞆港の入り口に浮かぶ島だった。頂きには海城が築かれており、南北朝時代には北朝・足利幕府軍と南朝・後醍醐天皇軍との合戦の舞台となりました。
 戦国時代には村上水軍の一族がこの海城を拠点にして、海上交通の要所・鞆の浦一帯の海上権を握っていました。
 福島正則が鞆城を築いた慶長年間(1600年頃)に、埋め立てによって大可島が陸続きとなりました。城は廃城となり、慶長15年(1610年)頃に大可島城(たいがしましろ)の跡地に移転し、建造されたと伝えられています。江戸時代は真言宗明王院の末寺となっていました。朝鮮通信使が来日した際には上官が宿泊しました。

 いろは丸沈没事件の談判の際、紀州藩の宿舎に使用されました。
「太平記」を足掛かりに歴史をひもとくと~。

 後醍醐天皇は奈良・吉野に移り(南朝)、長い南北朝の戦いが始まった。鞆の浦が戦場になったのは1342(康永元)年5月。鞆や尾道の北朝船団1,000隻が南朝方伊予(愛媛県)の船団500隻に戦いを仕掛け、鞆沖で大海戦となった。しかし、戦中の激しい突風が南朝方を山陽側へ、北朝方を四国側へと互いに敵地へ運んでしまう。南朝方はこの不慮の事態を利用。一気に鞆の浦に押し寄ぜ、北朝方の大可島城を占領した。これに対し北朝方は3,000騎の兵を集めて小松寺に着陣。戦いは十数日続いたという。北朝方の勝利は南朝方をほぼ制圧した歴史的な意味を持つが、鞆の寺社、家並みの多くが焼失した。

 南朝方をほぼ制圧した北朝方の室町幕府内では、尊氏の弟・足利直義と尊氏の執事高師直の対立が表面化。不穏な空気が全国に広がる中、中国探題として1349(貞和5)年4月、鞆の大可島城に入ったのが尊氏の長男、足利直冬だった。母が正妻でないため、叔父・直義の養子となった後やっと認知された若武者だった。直冬は高師直派の不法行為に厳罰を与えるとともに信賞必罰を徹底。備後周辺の武士から善政として厚い信頼を得た。しかし、同年8月、高師直が直義を出家さぜたのを機に、直冬を攻め状況が一変。九州へ落ちた上に、師直の進言を入れた父・尊氏が直冬追討令を出した。直冬は生涯、実父、幕府と戦いに明け暮れることになる。

(「知っとく? ふくやま」 監修 松本卓臣/平井隆夫より)
 「大可島(たいがしま)」山頂からは、足下に従える鞆の街と港を除いて、遠く四国に至るまでの瀬戸内と島々の広がりを一望することができます。ここに砦を築けば、目の前の瀬戸内の往来のすべてに睨(にら)みをきかせることが可能になります。
 大可島城は、鎌倉末期から南北朝期に築かれたといわれています。現在では陸続きとなっていますが、当時は鞆の街との間も水道で分かたれていて、文字通り「大可島」という島でした。
 水上交通の要所であり、
 こうした足利一族の軍勢は、畿内と九州との往来に際して、常に鞆を拠り所としながら海路を用いますが、その背景には足利氏に従い奮戦する鞆水軍がいたと思われます。
 戦国時代には、毛利の勢力下にあった村上水軍の一族が、大可島城を拠点として鞆を押さえます。信長に追われた最後の将軍義昭が、毛利氏を頼り落ちて行く先を鞆としたのも、先祖に忠節を献げてくれた鞆の水軍の存在が心に浮かんだのではないでしょうか。
(「鞆に見る歴史のロマン」福山市観光協会)
海で囲まれた難攻不落の大可島は、水軍の拠点として戦略上他に得難い地であったのです。
 事実古来より鞆の水軍は瀬戸内の戦いにかかわり、その勝敗に大きな役割を果たしてきました。なかでも、「足利幕府は鞆に興き鞆に亡ぶ」といわれるように、足利氏の盛衰に大きな役割を果たしています。
 建武3年(1336年)、足利尊氏は、後醍醐天儀の親政に反旗を翻します。しかし、新田義貞や楠木正成に敗れて、京都を追われて水路で九州を目指して落ちてゆきます。その途上に鞆の浦の「小松寺」に逗留(とうりゅう)し、
光厳(こうごん)上皇の院宣を手にします。その院宜を拠りどころに九州で勢力を盛り返し、再び京都に攻めのぼりますが、その際、鞆に武将を集結させて軍議をしています。
 正平4年(1349年)には、足利尊氏の子で、尊氏の弟直義の養子であった足利直冬(ただふゆ)が、長門探題として西に下り大可島城に入城します。しかし、足利尊氏、高 (こうの) 師直(もろなお)・師泰(もろやす)兄弟と足利直義が対立し、直義が失脚します。そのため、直冬は備後の尊氏方から攻撃され、九州へ落ちてゆくこととなるのです。  




こぼれ話

 大可島の名前は、対ヶ島に由来すると言いますが、鯛ケ島という説もあります。鞆は古来より鯛の名所として名高いので、こちらの方がふさわしいかもしれません。
 ところで、瀬戸内海の各所では、3月中旬から5月初めの満潮時に、鯛が腹を上にして浮ぶ、浮鯛という現象が見られます。強い潮流や水温変化のせいともいわれますが、原因は定かでありません。足利直冬ら大可島に立てこもった武将たちも、戦いの合間には舟を出し、
浮鯛を網で求めて一時の安らぎを楽しんだのでしようか。
(「鞆に見る歴史のロマン」福山市観光協会)






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