浄光明寺(真言宗)
鎌倉市扇ガ谷2-12-1 標高 14.8m~40.3m
ウォーキング地図へ
 北条氏六代執権・北条長時が1251年に創建して、浄土(諸行本願義)、真言、華厳、律の四宗兼学の寺として、開山に真阿(真聖国師)を迎えた。真聖国師は法然からつづく善導大師本願の弟子であったので、創建当時は浄土宗の寺でした。(現在は京都泉涌寺に属する真言宗の寺である。)

 1335年、一時足利尊氏がこの寺に引き篭り、後醍醐天皇に対し挙兵する決意を固めたという。尊氏、直義兄弟の帰依は厚く、尊氏による寺領寄進、直義による仏舎利の寄進などが行われたことを書いた古文書が残っています。

 山門を入ると客殿、庫裏、不動堂などがあり、その裏手の一段高くなった敷地に阿弥陀堂と収蔵庫があります。重要文化財の阿弥陀三尊像等は収蔵庫に安置されています。これらのさらに裏手、狭い階段を上った先の山上には岩壁をうがった「やぐら」があり、内部に石造地蔵菩薩坐像(通称網引地蔵)が安置されています。そこからさらに登ったところには国の史跡に指定されている冷泉為相(れいぜいためすけ、鎌倉時代の歌人)の墓があります。境内は、谷戸を雛壇状に造成した中世寺院の景観がよく保存されています。
 北条時頼(ときより)と長時(ながとき)により創建され、「浄光明寺敷地絵図」に示されるような中世の状況を残しています。鎌倉歌壇(かだん)の成立を物語る冷泉為相(れいぜんためすけ)の墓があります。

 鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より 
 山門。
 この寺は、文覚(もんがく)が頼朝(よりとも)の願いで建てた寺が前身だと伝えられています。その後、1251年(建長3年)ころに、5代執権北条時頼(ときより)や6代執権北条長時(ながとき)が、真聖国師真阿(しんせいこくししんあ)を開山とし、創建したといわれます。真言宗(しんごんしゅう)などの
四つの宗派の学問所となったこともありました。1333年(元弘3年)に後醍醐(ごだいご)天皇の子、成良(なり(なが)よし)親王(しんのう)の祈願所になったり、1335年(建武2年)、足利尊氏(あしかがたかうじ)が朝廷に対して態度を決められないでこの寺に閉じこもったりしました。室町時代には、




鎌倉公方の保護を受け、栄えたようです。

 北条氏の氏寺であった浄光明寺は、国の史跡で、世界文化遺産候補地とされています。

 公開されていませんが、客殿には、元寇(げんこう)の時に、元の降伏を祈ったという木造の愛染明王(あいぜんみょうおう)像がまつられています。不動堂には、八坂不動(やさかふどう)と呼ばれる、木造の不動明王(みょうおう)像が安置されています。この不動明王には次のような言い伝えがあます。
 石畳の左に本堂、庫裏。右に不動堂、奧の階段の上に阿弥陀堂がある。
 昔、京都の東山にあった八坂の五重塔が皇居の方に向かって傾いたとき、浄蔵貴所(じょうぞうきしょ)という僧が、仏のカによって塔をもとに戻そうとしました。そのときに祈ったのが、不動明王でそれから八坂不動明王といわれるようになったそうです。その後、文覚(もんがく)がこの寺に安置したと
いわれています。

 鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より








 客殿
 新しい時代を切り開いた足利尊氏が、その大望を遂げる前に蟄居していたお寺が浄光明寺。静かなこのお寺で、迫り来る新田義貞軍をどう打ち破るのか、沈思黙考していたのかと思うと。
     勢至菩薩像
妙傳寺へ:  護国寺へ:  岩舟地蔵へ:
1頁へ  2頁へ  3頁へ  4頁へ  5頁へ  6頁へ  7頁へ