この時の紀行文が有名な『十六夜日記(いざよいにっき)』です。為介も母を追って鎌倉に来て、この近くの藤ヶ谷(ふじがやつ)に住み、鎌倉の和歌の指導者として知られました。
鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より
かつては、ここに多宝寺があった。
本堂の裏山の道を上ると、やぐらの中に「正和二年」(1313年)と刻まれた石の地蔵があります。昔、由比ケ浜で漁師の網にかかって引き上げた地蔵だと言い伝えられているので、「網引地蔵(あみひきじぞう)」と呼ばれています。
網引地蔵の少し上に、石垣で囲まれた石造の
「冷泉為相(れいぜいためすけ)の墓」である宝篋印塔(ほうきょういんとう)があります。為相は、歌人として有名な藤原定家の孫で、和歌の家柄の冷泉家の祖となった人です。異母兄弟の為氏と領地のことなどで争いになったとき、母の阿仏尼(あぶつに)が執権北条時宗に訴えるために京都から鎌倉に来ました。