浄光明寺(真言宗)
鎌倉市扇ガ谷2-12-1 標高 14.8m~40.3m
冷泉為介(れいぜいためすけ)の墓の先はふだんは立ち入ることはできません。
この裏山あたりが「多宝寺(たほうじ)跡」で、16穴のやぐら群が発掘調査されました。鎌倉で二番目に大きい3.26mもある国の重要文化財の石造の五輪塔があります。以前は、極楽寺(ごくらくじ)を開いた忍性(にんしょう)の墓だといわれていましたが、塔のなかから発見された、遺骨を納めた容器から、1306年(嘉元4年)に亡くなった多宝寺の僧の覚賢(かくけん)の墓だということがわかりました。そこで、
冷泉為相の墓
冷泉為相(1263~1328年)は異母兄弟の二条為氏と播磨細川荘の相続争いで、訴訟で鎌倉に来ていた。(「十六夜日記」の作者 阿仏尼は冷泉為相の母)
冷泉為相は、歌人として有名な藤原定家の孫で、和歌の家柄の冷泉家の祖となった人です。
この塔を「覚賢塔(かくけんとう)」ともいいます。
覚賢塔の山の下に、1974年(昭和49年)東京から移転した、日蓮宗の妙伝寺(みょうでんじ)があります。
鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より
今日は、多宝寺長老「覚賢」の五輪塔への扉が空いていましたので、行ってみました。
浄光明寺の背後の丘陵東側、谷奥にあるやぐら群。名前は、この谷に開かれた多宝寺に由来し、長老覚賢の大五輪塔の前面に分布する。鎌倉時代から室町時代中期にかけてのやぐら16つある。五輪塔や常滑の壺、かわらけなど貴重な出土品が多い。
覚賢(かくけん)(?-1306)。
鎌倉時代末期の律宗僧侶。廃寺多宝寺の長老であった。詳細な事蹟などについては全くわからない。舎利容器の「多宝寺覚賢長、遺骨也、嘉元四年二月土八日、入滅」)とある銘文から存在が知れるのみである。この舎利容器の納められている塔は多宝寺跡の最も奥にあって、総高326cmの安山岩製五輪塔。極楽寺忍性塔に次ぐ鎌倉第二の大五輪塔である。全体にやさしい曲線を持つ美しい塔。もとは忍性塔とよばれていたが、大正十二年(1923)の
多宝寺長老「覚賢」の五輪塔(国重文)。
1976年の修復のときに、地輪の下方で見つかった銅製の骨壺に「多宝寺覚賢長老遺骨也嘉元4年3月16日入滅」と彫られていた。
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高さ約3mの巨大な安山岩製の五輪塔で、極楽寺忍性墓にも匹敵するほどの大きさである。
この石塔が地産の鎌倉石ではなく安山石製のため、綺麗な形で残っている。
関東大震当災で倒れ、その復旧工事中に前記舎利容器地が発見されて、覚賢和尚の墓塔であることが判明した。重要文化財。 (大三輪)
〔文献]『市史』考古編、『鎌倉-史蹟めぐり会記録-』(鎌倉文化研究会)
来たときと同じ道を引き返します。