1358(延文3)年、日蓮宗の高僧、大覚大僧正が鞆の浦に上陸し、法華堂を建立したのが法宣寺のはじまりです。日蓮宗きっての実力者であり、後醍醐天皇の第三王子でありながら出家した大覚大僧正が、この地で説法を始めたことで、鞆の浦は一躍、西国法華布教の拠点となり、お堂も「大法華堂」と称されるようになりました。以後、多少の盛衰は経ながらも、法宣寺は三備(備前、備中、備後)日蓮宗の重要寺院でありつづけ、江戸時代には朝鮮通信使の宿所にもなっていました。
『外交使節団をわざわざ見物した江戸の庶民』
朝鮮通信使とは、李氏朝鮮が1404年から日本に派遣した外交使節で、豊臣秀吉による朝鮮侵攻のあと途絶えていたが、1607年から再開された。
江戸時代には、1811年まで12回、朝鮮通信使が日本を訪れている。その中心のメンバーは外交担当の役人や武官だが、さまざまな随行員も含めると、毎回なんと約400人もいた。
彼らは、対馬や壱岐から瀬戸内海を通って大坂・京に入り、名古屋を経由して東海道を行進して江戸に到達した。
朝鮮通信使の一団は、日本ではめずらしい服装で朝鮮の音楽を奏でながらパレードした。当時の日本の庶民は、毎回わざわざ見物に集まり、江戸の町ではこの異国人の一団を描いた絵や書物が飛ぶように売れたという。(「同時にわかる! 日本・中国・朝鮮の歴史」(小口彦太 監修/造事務所 編著)PHP文庫より)
かつて法宣寺には国の天然記念物がありました。大覚大僧正お手植えと伝わる黒松の巨木です。その枝ぶりから「天蓋マツ」とも呼ばれ、鞆の浦の人々の誇りでしたが、残念ながら、1991年夏、六百余歳で枯死しました。
支柱と切株だけが残った跡地は、無常の想いを呼び起こします。ただ不思議なのは、老松が枯れて以来、今まで影が薄かった隣の紅梅が生気を得て、最近では新しい花の名所になっていることです。
アカマツやクロマツの寿命は、特に長寿な木で300~500年ほど。600年以上も生きた松は特別ですね。
友光軒の前の四つ辻から、鞆小学校前を経て法宣寺に至る道筋を、「清正公道(せいしょうこうどう)」と呼びます。これは江戸末期、法宣寺境内に加藤清正を祀るお堂があり、多くの参拝者を集めていた名残です。法華信仰の篤かった清正は、死後主に日蓮宗徒の間で治病除災の神として崇められたのです。清正公堂はなくなりましたが、今でも法宣寺には二体の清正公像があります。そのうち一体はなんと、清正公自彫りとの伝承も!
かつては、この正面に「天蓋マツ」とも呼ばれた天然記念物の松がありました。しかし、1991年夏、残念ながら六百余歳で枯死しました。
鎌倉時代に日蓮宗(法華宗)を開いた日蓮は「妙法蓮華経」の五字に釈迦如来の力のすべてがこもっており、人の信心をあらわす「南無」をつけた「南無妙法蓮華経」の七字によってうけとれるとした。それを「妙法五字七字」という。
サンスクリット原典からの翻訳もある今では「妙法蓮華経」は原語「サッダルマ・プンダリーカ・スートラ(正法の白蓮の経)」を漢訳した経典名にすぎないと思われるかもしれない。しかし、『法華経』に説かれているのは、この宇宙には人の言葉ではあらわせない神秘があり、そこに諸仏の力が働いている
ということである。
その確信を日蓮は「南無妙法蓮華経」の七字の題目に込め、題目を中心に釈迦・多宝如来をはじめ、日本の天照大神や八幡大菩薩などの尊名も書き入れた大曼荼羅をあらわして、弟子・信徒に信仰の本尊として与えた。