淀媛神社
福山市鞆町後地  標高:15.5m
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 この神社の祭神は淀姫命(よどひめのみこと)。三韓征伐を行った神功(じんぐう)皇后の妹君で、はじめは、海神・大綿津見命(おおわたつみのみこと)を祀った沼名前神社(渡守神社)の祭主を務める身でした。しかし、後世、その徳が偲ばれて氏神として奉斎され、鞆湾の入口を守護する守り神となりました。以降、この高台に鎮座し続け、現在に至っています。

 現在の社殿は大正3年に建立されたもので、平成13年に修復されています。

 神功皇后が三韓征伐のため西国下向の際、鞆の浦の地に寄泊しました。帰路携帯していた「鞆」を奉納し、海神・大綿津見命を祀った際に、妹君の淀媛命を祭主として奉任させました。その神社が沼名前神社(渡守神社)の起源です。
 数年後に淀姫命は鞆の浦を去りましたが、後世その特を偲び氏神として奉斎し、鞆の浦湾の入口の丘の上に鎮座する護り神として現在に至ります。
神功皇后の妹君の「淀媛命」

 十四代仲哀天皇の后であられた神功皇后が、新羅へ出兵に際し、諸国に使令を出して船舶を集め武器鎧をお揃えになった。 また皇后は、妹の淀姫命を松浦に遣わし兵と船を集められた。松浦地方の族長である磯良(しら)を伴い此の地の海辺・膳崎(かしわざき)に着船された。

 淀姫命は松浦より出陣なされし時、沙迦羅龍王(さからりゅうおう)より潮満玉(しおみつたま)と潮干玉(しおひるたま)を借り、375人船に乗り組み、皇后と共に新羅へ向かわれた。対馬を過ぎやがて彼の地が見えだした。 潮干玉を投げられると海は50里ほど干し上がったので、新羅軍は喜び勇んで海の中まで攻めてきた。そこで潮満玉をお投げになると潮がどんどん満ち、陸の上まで上がり船は王城の門まで達した。 新羅王は和睦を乞い貢ぎ物を毎年送ることを誓い長い間届けた。淀姫命は御帰朝後、志佐の美しさと住民の暖かさをお忘れになることなく、病人の治療や干魃には雨乞いをなされた。
 石段が始まる鳥居の手前に、「百度石」があります。
 「百度石」というのは、“お百度参り”で行ったり来たりする、その往復地点の目標となる石柱のことです。その「百度石」を2匹の狛犬が仲良く挟んでいます。
 お百度参りがいつごろから始まったのかは明らかでなのですが、『江戸名所図会』(江戸時代の後期)によれば、江戸雑司ケ谷(東京都豊島区)の鬼子母神堂がその始まりだという。
 お参りする回数が多ければ多いほど、願いが叶えられるため、一回よりは二回、二回よりは三回……と。
 多いに越したことはないのですが、切りのいいところで百回となっているようです。
 百度参りは水をかぶる水垢離(みずごり)や寒参りと同様の願掛けで、履きものを脱ぎ、裸足で行なうと効果が大きいといわれています。


・多いに越したことはないが、切りのいいところで百回。


・多いに越したことはないが、切りのいいところで百回。


・多いに越したことはないが、切りのいいところで百回。
 




神功皇后の新羅征討
 夫の仲哀天皇の急死(200年)後、神功皇后が201年から269年まで政事を執り行なった。仲哀9年(200年)3月1日に神功皇后は齋宮(いはひのみや)に入って自ら神主となり、まずは熊襲を討伐した。その後に住吉大神の神託で再び新羅征討の
託宣が出たため、対馬の和珥津(わにつ)を出航した。お腹に子供(のちの応神天皇)を妊娠したまま海を渡って朝鮮半島に出兵して新羅の国を攻めた。新羅は戦わずして降服して朝貢を誓い、高句麗・百済も朝貢を約したという。
 皇后は帰国後、筑紫の宇美で応神天皇を出産し、
志免でお紙目を代えた。
 神功皇后が三韓征伐の後に畿内に帰るとき、自分の皇子(応神天皇)には異母兄にあたる香坂皇子、忍熊皇子が畿内にて反乱を起こして戦いを挑んだが、神功皇后軍は武内宿禰や武振熊命の働きによりこれを平定したという。




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