八菅神社
愛甲郡愛川町八菅山  標高 158.6m
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 八菅山の中腹にあり、別名八菅の七社権現とも呼ばれ、日本武尊、国常立尊、伊邪那岐命、金山毘古命、誉田別命、大己貴命、伊邪那美命の七神が祭神として祭られている。

 明治維新までは神仏混淆の信仰に支えられてきた聖地で、大山阿夫利神社、日向薬師とともに関東での山岳修験の道場であり、修験道三派のうち聖護院流である。

 かって山内には七社権現と別当・光勝寺の伽藍、それを維持する五十余の院・坊があって相模の国峰として盛えていた。
 八菅山縁起によると日本武尊が東征のおりにこの山を望み見て、山容が蛇の横わたるに似ているところから「蛇形山」と名付けたという。
 また、703年、修験道の開祖役の小角(えんのおずぬ)が入峰し修法を行ったとき、忽然として「池中に八本の菅が生えたことから八菅山の名が起こり、709年には僧行基が入山、ご神体及び本地仏を彫刻し伽藍を建立して勅願所としたという。
 しかし、明治の神仏分離令により光勝寺は廃され七社権現は八菅神社と改称、今日にいたっている。

 神社の入り口には芭蕉の句碑(1860年建立)もあり、社殿は300段の石段を登ったところにある。
 八菅神社は、古代から江戸時代に至る長い問、八菅一山と称し、修験者(しゅげんじゃ)による特別組織の村構成をしていました。つまリ 八菅神社は、古代から江戸時代に至る長い問、八菅一山と称し、修験者による特別組織の村構成をしていました。つまリ八菅一山は、熊野権現を中心に蔵王・箱根、男山(なんざん)八幡・山王(さんのう)・白山・伊豆走湯(はしりゆ)の七社権現(ひちしゃごんげん)に別当光勝寺(こうしょうじ)の名の元にまとまった本坊(ほんぼう)24坊・脇坊(わきぼう)22坊の修験者が奉仕したといい、八菅村一山組織を作って生活していました。しかし明治維新となり、修験堂が廃止され、七社権現は郷社(ごうしゃ)八菅神杜となり、修験者はすべて神職となり、神職にならない者は帰農したので、修験集落としての八菅山は、明治初年に消滅してしまに神社としての八菅山が庶民の信仰を集めました。

 「厚木の観光ポケットブック」(厚木市観光政策課発行)
    五柏園丈水の社中が建立した句碑

     おちこちの
        笠も八菅や
           順の峯
1 景行天皇27年日本武尊(やまとたけるのみこと)御東征(ごとうせい)の時、この八菅山に立ち寄り賜い、山形が龍に似ているというので、この山を蛇形山(じゃがたやま)と命名。

2 大化2年(646)勅名により、蛇形山盧舎那寺(るしゃなじ)が建立。

3 大宝3年(703)役小角(えんのおずぬ)が日本武尊(やまとたけるのみこと)を慕って八菅山に修法し、その時寺、天人影向(てんじんえいこう)奇端(きずい)があり、当社を創建。

















朱印地を与えられ、寺格が定められた。

8 明治6年(1873) 7月30日光勝寺は廃され、郷社八菅神社となる。
 現存している梵鐘で、木村氏ー門による最古の例の一つ。作られたのは江戸時代の初期の頃で、「元和四丁巳年四月拾五日」「大工子合住木村太郎右衛門重次」の銘が残っている。
4 和銅2年(709)行基菩薩(ぎょうきぼさつ)来山し、八菅山に七社権現を勧請。

5 霊亀2年(716)八丈八手(はちじょうはって)の幡(はた)が降臨(こうりん)し、八本の菅根(すげね)が生じ、このことから八菅山の名が生まれた。
6 建久年間(1190~1195)源頼朝が当社を再建し、奉行として御家人海老名季貞(すえさだ)を任じた。

7 天正19年(1591) 11月徳川家康公により、八菅山光勝(こうしょう)寺に6石6斗






 1618年鋳造とある梵鐘。三増合戦の時に義侠の死をとげた千葉金兵衛宗清の供養のために一族の者が奉造し、併せて徳川家康の冥福と秀忠の武運長久をも祈願したと伝えている。
【梵鐘】

 1618年に鋳造された梵鐘です。1841年に成立した「新編相模国風土記稿」の八菅村七社権現社の項にも、この梵鐘のことが記されています。
 総高110cm、直径61cm。陰刻銘には徳川秀忠の武運長久を祈念し、旗本である「奥津次右衛門」を中心に、この地域の人々が奉納したことが刻まれています。なお、揮毫(きごう)は、修験の作法書「神分諸次第」(1597年)の筆者である東向坊祐恵です。

 「愛川の文化財」より




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