鳥居のすぐ前を江ノ電が通っています。
御霊(ごりょう)神社の祭神は鎌倉権五郎景正(政)(ごんごろうかげまさ)です。景正は土地の人には「権五郎さま」と呼び親しまれています。
御霊神社というのは土地の神として祖先をまつる神社のことで各地にあります。桓武(かんむ)天皇の子孫平良兼(よしかね)の孫、村岡五郎忠通(ただみち)
という人の子に為通(ためみち)・景成(かげしげ)・景村(かげむら)・景通(かげみち)・影正(かげまさ)の五人がいて、五家に分かれたといわれます。忠通の死後、五家が栄えるようにと鎌倉に神社を建て、忠通と五家の祖先をまつり、御霊の神とか、五霊の神として尊敬してきたといわれています。一説には、
鎌倉・梶原・村岡・長尾・大庭の五平氏をまつるともいわれ、これらの本拠地に御霊神社が残っています。いずれにしても鎌倉に幕府ができるより前からあったと伝えられています。やがて鎌倉権五郎景正だけをまつるようになったのは、景正があまりにも武勇がすぐれていたことやこのあたりの領地を開いたことからでしょう。
景正は後(ご)三年の役(えき)(1083~1087年)に16歳で源義家(みなもとのよしいえ)に従って東北地方の戦いに出かけました。秋田の金沢の柵(さく)という城を攻めたとき、先頭に立って
顔を土足で踏まれてはこの上ない武士の恥だ。恥をかかせるような者は自分のかたきである。」
と言いました。為次はこれには反論できず、今度はひざで押さえて、その矢を抜いてやりました。多くの人はこれを見て、
「景正はなんと強い人だろう。年は若いが恥を重んじるりっぱな武士だ。」とほめました。
こうして景正の勇名は人々に知られ、御霊神社の祭神として尊敬されるようになったのです。
今の社殿は1913年(天正2年)に建てられたもので、そのときに寄進をした人達の名前がまわりの石柱に刻まれています。
おおいに活躍しましたが、敵の鳥海弥三郎(とりうみやさぶろう)という者に右の眼を矢で射られました。彼は目の矢も抜かずに矢をつがえ、相手を射倒してしまいました。味方の陣に引きあげ兜を脱いでから
「わたしは、傷ついた。」
と大声でどなって倒れたということです。
味方の三浦平太為次(継)(ためつぐ)という武士が、毛皮のくつをはいたその足で、景正の顔を押さえて矢を抜こうとしました。景正は倒れたままさっと刀を抜き、為次のよろいの下の方から突き殺そうとしました。為次はびっくりして問いただすと、
「弓矢に当たって死ぬのは武士の本望だが