橋本家は、江戸期から尾道を代表する豪商として知られ、尾道市街地の中で広大な当地は橋本家の別荘であり、爽籟軒と言われていました。橋本家は江戸期に代々町年寄を務め、田能村竹田、菅茶山ら多くの文人墨客と交友し、頼山陽や本因坊秀策を支えたことで知られています。
また橋本家は、重要文化財浄土寺方丈建立(1690年)をはじめ、神社仏閣への寄進や、飢饉に際して慈善事業(1834年慈観寺本堂建立)を行い、更に1878年には県内初の銀行である第六十六国立銀行(現広島銀行)の創業、尾道商業会議所の創設(1892年)など、近代産業や諸機関の普及、育成に尽力しました。
こうした江戸時代の茶園文化を伝える爽籟軒庭園は、尾道を代表する庭園として知られ、年間を通じて茶会が行われ、毎年、10月第2土曜日は夜間特別公開として、尾道灯りまつりにあわせ、優雅な姿を公開しています。また、今年はしまのわ大茶会として、10月19日に爽籟軒でも茶会が行われます。
(尾道市東京事務所便り 平成26年9月号より)
頼山陽は江戸時代後期の歴史家、思想家、漢詩人です。1780年に大阪で生まれ、頼山陽は青年期を広島で過ごしました。
幕末から明治の人々に影響を与え尊王攘夷の思想を作り上げたのが「日本外史」。この分野の江戸時代のベストセラーといわれています。
これは幕末の尊王尊王攘夷運動に影響を与えました。伊藤博文や坂本龍馬、近藤勇、西郷隆盛などが、山陽の書物を熟読しており、「頼山陽を知らずして尊皇攘夷を語るなかれ」と言っても過言ではなかったようです。
本因坊秀策は幕末に活躍し、囲碁における、近代の布石の基礎を築き、今なお碁聖と仰がれる天才棋士。1829年に尾道市因島外浦町に生まれ、20歳で第14世本因坊跡目になり、丈和の娘、花と結婚しました。21歳で将軍の御前対局である御城碁に初出仕し、このときから12年間御城碁において19連勝で負けることがありませんでした。しかし、当時、コレラ患者が続出し、秀策は秀和が止めるのも聞かず患者の看病に当たり感、染34歳という若さで他界しました。
露地及び踏石は、池を境に南北の意匠が異なっています。特に南端踏石は、爽籟軒船着場を利用した客人を迎える場として、長石が廊下のように造作されています。このほか、腰掛待合西側の築山西面部石組は、複雑な断面細工を施し垂直に積み上げられています。
茶室は、庵号を明喜庵とし、京都山崎にある千利休が建てた国宝妙喜庵待庵の写し、二畳隅炉茶室とともに、四畳半茶室の二席を有しています。