開基は二十四輩第五番信楽房(信楽房は、常に親鸞聖人の身近に奉仕したと伝えています。)
弘徳寺の寺伝ではかつてこの地には聖徳太子の発願によって秦河勝が地蔵菩薩を安置するために建てた地蔵堂があり、そこに親鸞聖人が御巡錫になり、その宿縁を大変喜ばれて、ここに草庵を結ばれて浄土真宗の教えをひろめられ、後に信楽坊に草庵を託されたと伝えています。
寺の縁起によれば、親鸞が東国布教の折りに滞在した旧跡で、親鸞の嫡男・善鸞がここに草庵を結び心光院と号したのが始まりと伝わる。
開山・開基は、親鸞の直弟子の信楽ぎょう房。信楽房は平将門の子孫で、俗名を相馬太郎義清といった。
建暦・元仁期に親鸞が常陸国稲田に布教の折りに門弟となり、その後当山を任せられた。
墓地に善鸞の墓と伝わる小高い土塚がある。
明治初期の廃仏毀釈で寺院の荒廃を憂い、当山世話人島崎利助という人が明治10年に自費を投じて墓石を建立した。また、供養塔と思われる「信楽塔」も建立されている。
『新編相模風土記稿』によれば、かってこの地には地蔵堂があり、親鸞が錫をとどめた旧跡と云われる。
弘徳寺の袈裟掛けの松
飯山の千頭(せんず)に浄土真宗の弘徳寺があります。この寺に、開祖・親鸞上人が植えたと言われる松があります。松を植えるとき、親鸞が「我が信ずる本願は諸行にあらず、一向専念の宗義なれば二心並立にあらずして一心なり。この法諸仏の本意に叶うならば、二葉を捨てて一葉(ひとは)たれ」と言ったところ、一葉になったとされています。ふつうの松の葉は二本ですが、この松の葉は不思議なことに一本だったので、「一葉の松」ともよばれました。親鸞が植えた後に、覚如上人(かくにょしょうにん)が袈裟を掛けたので「袈裟掛けの松」とも言います。
この松は昭和三十五年に枯れたので、切り倒しました。今は本堂の前に根元の木口だけが残っています。またこの寺には、親鷺の子・善鸞(ぜんらん)の墓というのがあります。
(「厚木の口承文芸」より 厚木市教育委員発行)
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法然や親驚の他力信仰と、道元の自力の考え方は、一見すると反対側にあると思えるが、実は求めるところは同じだということ。法然や親鷺は煩悩(ぼんのう)のある自分がひたすら念仏を唱えることで救われると教え、道元はひたすら禅をやれと説く。
人間というものは、煩悩を断ち切れないものです。
たとえどんなに厳しい修行をしても、煩悩から脱することはできない。親鷲など、妻帯はする、肉は食べるなど、まさに煩悩に真正面から向き合った人です。
親鸞が自分は「罪悪深重(ざいあくじんじゅう)の凡夫」というように、非常に自分を深く見つめ、自分の罪深さを表明していきます。
人間は、煩悩から逃れられないもの……それを認めてくれるのが、仏教の素晴らしいところなのです。
仏教は正義を語らない、そしてこの世に絶対的な善も悪もないとする。一神教ではないし、何より寛容性にあふれている。他宗教に対する偏見もない。さらにいえば、仏教は「幸福」も語らないのです。