法昌山 妙蓮寺 (日蓮宗)
福山市鞆町後地  標高:3.9m
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 慶長年間(1596~1614)に実相院日玖が創建したと伝えられています。実相院日玖は元気で充実した年頃に日常のつきあいを断ち、法宣寺十四世恵性院日親の弟子となり、修行し、法華経を読すること40年、一万二千余巻におよんだ。
 福山藩主・水野勝成殊勝に願い、寛永の末(1644年頃)今の地を賜い、三人扶持十一石を賜る。

 本堂は、主として浄財を募り建立。上京し、本山から山号・寺号を請受した。
 福山二代藩主・水野勝俊からの庇護もあり、その勝俊の位牌が伝わる。
 承応年間(1652~1654年)に建立したと伝えられる三十番神堂があり、二代・日護の時、延宝年中(1673~1681)奉行・藤井六郎右衛門に願い出て、境内門前を広げ、四代・日義、元文四(1739)年に鐘を鋳造した。
 妙蓮寺本堂、鐘楼、山門とも元文年間(1736~1741)に再建された。
 寺宝の日饒(にちじょう)上人の御本尊大曼荼羅(寛永三年・1626年)が現存しています。
 福島正則の改易に伴い、水野勝成が1619(元和5)年、備後10万石の領主となって入府。福山と命名して福山城を築いて以来、芦田川河口のデルタを開拓、治水工事とともに城下町として整備した。
 勝成は秀忠から郡山に替わって備中西南部と備後南部の福山10万石を与えられる。
 備後国は勝成が放浪時代を過ごした場所であった。
 寛永15年(1638)の島原の乱では、老齢(当時75歳)にもかかわらす、勝成の戦歴を評価されて幕府から、島原の乱鎮圧への参加を要請され、約6,000人を率いて幕府軍に加わった。これは九州の大名以外で唯一の参陣であった。




 福山藩は、水野氏5代、松平氏1代、阿部氏10代の治世が版籍奉還まで続き、今日の礎となった。福山藩主阿部氏10代のうち、7代藩主の阿部正弘は老中首座で安政の改革を断行、ペリーとの間に日米和親条約を結ぶなど,開国政策を推進。洋学所・海軍伝習所を創設した。
窮状を訴えたところ、釈迦は末っ子を隠してしまいます。鬼子母神は狂ったように捜しましたが見つかりません。悲嘆に暮れていると釈迦が現れ、「五百人のなかのひとりを失っただけで苦しいのだから、食べられた子の親はどれほど悲しかったか」と諭し、子を返しました。その後、鬼子母神は仏教に帰依し、善神となったのです。いまは子を護る神として、子どもに囲まれた天女で表されます。
※千人、一万人という説もあります。
(『イラストでわかる「日本の仏さま」』日本の仏研究会編集)
鬼子母尊講中お題目碑

 このお題目碑は第14世止妙院日正上人代の店舗年間(1830年頃)、当時の総代と篤信者により、祖願達成、寺門興隆、参詣する人々の心願成就を祈念し建立された。
 鬼子母神は、サンスクリット語名のハーリティを音写して訶梨帝母とも呼びます。もとは、ガンダーラ国のパーンチカ(般闇迦夜叉(はんじゃかやしゃ))という鬼神の妻でした。夫妻には五百人の子がいたそうです。鬼子母神は他人の子を奪ってきては食べるという悪行を繰り返していました。困った人々が釈迦に






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