妙厳山 本覚寺(日蓮宗)
鎌倉市小町1-12-12 標高 6.7m
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 「東身延」とも呼ばれる。佐渡配流から帰った日蓮が一時、この夷堂に滞在し、辻説法などの拠点としていた。

 本覚寺の開山は、日出上人、駿河の国三島の出身の学者。後に日蓮宗の僧となった。
 寺伝によると、日出上人は熱心に布教活動をしたが、日蓮聖人同様激しい反対に遭い、捕らえられたが、そのときの鎌倉公方足利持氏が、その熱意に感心し、日蓮聖人ゆかりの夷堂のあるこの場所を与え、1436年に建立された。

 日出上人の後を継いだ日朝上人は、幼いときから神童とよばれた優れた人で、身延山より日蓮聖人の遺骨をここに分骨し、祖師分骨堂が建てらた。また、自分の名を呼びながらお祈りすれば目の病を治してあげようとも言ったそうで、いまでも本覚寺は「日朝(にっちょう)さま」の愛称で通っている。 日蓮の生まれ変わりといわれるほどウルトラ秀才だったので、本覚寺には大物過ぎ、身延山に移り法主となった。

 現在も、正月のえびす祭りなどには大勢の参詣客でにぎわいる。
 この寺を開いた人は、一乗院日出(にっしゅつ)です。この人は、寺の縁起によればもとは学者でしたが後に日蓮宗の僧になりました。生まれた所は、駿河の国(今の静岡県)三島で、いろいろな迫害や苦労にたえられる修行をしました。その後、鎌倉の夷堂(えびすどう)に住み、教えを広めようとしましたが、他の宗派の人々の反対にあい、鎌倉公方足利持氏(あしかがもちうじ)に捕えられ、刑場で殺されそうになりました。しかし、夷神(えびすがみ)のお告げにより許されたといわれます。このことがあって持氏は、夷堂のあったところに本覚寺を建てて日出に寄進したそうです。

 鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より 
 正月の飾りがしてあります。
 本覚寺は「日朝さま」といわれるが、初代は日出上人という。
 日朝は二代目で、日蓮の生まれかわりといわれるウルトラ秀才だった。本覚寺には大物すぎたか、身延山へ移って法主となり、日蓮宗の総本山たるの偉容を名実ともに整えて有名になつた人である。
 さて、開基の一乗院日出上人であるが、はじめは仏教学者で駿河国(静岡県)三島で研究を続けていた。
 日蓮の教えに入ると鎌倉へ出てきて、この辺りにあった夷堂に住んで布教を始めたが、宗祖同様他宗の反対にあい、執権足利持氏に捕えられて、
しまった……。
 許された日出さんの方も、夷様のおかげで助かったのであるから日々お参りして感謝したことであろうし、本覚寺と夷堂とは明治時代までは密接不可分の間柄であったらしいのだ。
 神仏分離の政策がとられるに及んで、夷堂は警察署左側の道のつき当りに移された。夷神と山王大権現が合祀され、名前も蛭子神社と変ったが、本質は昔と同じものという。
 蛭子とは、いざなぎ、いざなみ二柱の日本の国生みの神が最初に生みそこねたという、目も鼻もロもない、いわば奇形児の元祖である。
大町六地蔵にあった刑場に引かれて行った。
 あわや風前の灯と消えるかと思われたが、不思議にも無罪放免となったばかりか、夷堂のあつた付近にお寺を建てるようにと、二百平方メートルの土地と、建設費の一部にあてるようにと十二貫二百文のお金さえ賜わった。理由は単純明快。ある夜持氏の夢枕に
夷神があらわれ「日出を殺すな許してやれよ」とのお告げがあったからという。
 この辺は大倉の頼朝幕府の裏鬼門にあたるので、頼朝は夷神を祀って幕府の守護神としたのである。
 そういう神様のお告げであるから、流石剛気な執権持氏もナメクジに塩をぶっかけたように恐縮して












 この不気味な蛭子が舟で流され、海上を漂っているうちにたくましく生まれかわつたのが夷神という。夷とは語のニュアンスからしても「どこの馬の骨かわからぬ......どこか遠いところからやってきた」という語感がある。
 夷神が漁民の間では外来のもの(漂着神)と信じ
られているのも、こういうた理由による。
 江戸期の民間信仰では恵比須と書かれ具体的には、風折帽子に狩衣指貫姿で鯛の大きな奴を抱え釣竿をもってニコニコとしてござる。誠に陽気な庶民的な神であって、漁業・航海・商業のシンボルとされている。
 筒袖姿、裾短い作業着で米俵に腰を掛け、
べレーのダブダブみたいなづきんを被り、何やら詰めこんだ袋をかついで打出の小槌というのを携えている福の神もいる。これぞ農民の守り神、大黒天であり、サンタクロースの国産品である。
(「鎌倉 趣味の史跡めぐり」長峰五幸著より)
 




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