開基の一乗院日出上人であるが、はじめは仏教学者で駿河国(静岡県)三島で研究を続けていた。
日蓮の教えに入ると鎌倉へ出てきて、この辺りにあった夷堂に住んで布教を始めたが、宗祖同様他宗の反対にあい、執権足利持氏に捕えられて、大町六地蔵にあった刑場に引かれて行った。
あわや風前の灯と消えるかと思われたが、不思議にも無罪放免となったばかりか、夷堂のあつた付近にお寺を建てるようにと、二百平方メートルの土地と、建設費の一部にあてるようにと
夷神が漁民の間では外来のもの(漂着神)と信じられているのも、こういうた理由による。
江戸期の民間信仰では恵比須と書かれ具体的には、風折帽子に狩衣指貫姿で鯛の大きな奴を抱え釣竿をもってニコニコとしてござる。誠に陽気な庶民的な神であって、漁業・航海・商業のシンボルとされている。
(「鎌倉 趣味の史跡巡り」長峰五幸 著より)
十二貫二百文のお金さえ賜わった。理由は単純明快。ある夜持氏の夢枕に夷神があらわれ「日出を殺すな許してやれよ」とのお告げがあったからという。
この辺は大倉の頼朝幕府の裏鬼門にあたるので、頼朝は夷神を祀って幕府の守護神としたのである。
そういう神様のお告げであるから、流石剛気な執権持氏もナメクジに塩をぶっかけたように恐縮してしまった……。
許された日出さんの方も、夷様のおかげで助かったのであるから日々お参りして感謝したことであろうし、本覚寺と夷堂とは明治時代までは密接不可分の間柄であったらしいのだ。
神仏分離の政策がとられるに及んで、夷堂は警察署左側の道のつき当りに移された。夷神と山王大権現が合祀され、名前も蛭子神社と変ったが、本質は昔と同じものという。
蛭子とは、いざなぎ、いざなみ二柱の日本の国生みの神が最初に生みそこねたという、目も鼻もロもない、いわば奇形児の元祖である。
この不気味な蛭子が舟で流され、海上を漂っているうちにたくましく生まれかわつたのが夷神という。夷とは語のニュアンスからしても「どこの馬の骨かわからぬ......どこか遠いところからやってきた」という語感がある。
正月の飾りがしてあります。
この夷堂は、鎌倉幕府の裏鬼両という方角に当たるというので、幕府の守り神として源頼朝か夷神をまつったところだといわれています。鬼門というのは、中国の古い時代の占いからきたもので、鬼が出入りするところなので何をするのも避けなければいけないという考え方です。
鬼門というのは北東を、裏鬼門というのは南西をさします。
鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より