1050年天台宗の桓瞬和尚が開山と伝わる古刹。一時は荒れてたこのお寺を再建したのは、曹洞宗の天巽和尚。
伊豆の伊東一族の子孫と伝えられている、伊東九郎三郎政世は源清院を菩提寺とし、源清院本堂裏には、政世をはじめとする伊東一族の宝筐印塔が並んでいる。
天巽和尚は、足柄の最乗寺15世を勤めた人、最乗寺での務めを終えられて沼田の龍華院に帰る途中、上州で起きた戦乱に巻き込まれることを避け、上荻野にある松石寺に足止めされていたとき、松石寺の住職の地位を譲られた天巽は、三田にあり荒廃していた天台宗清源院の再建に乗り出す。曹洞宗に改められた清源院は、天巽派の寺院として復活を遂げる。
1748年に関東の曹洞宗を取りまとめている関東三箇寺(大中寺、總寧寺、龍穏寺)から曹洞宗僧侶の修行道場として認められ、天巽派の代表寺院としての地位が確立した。お寺に伝わる1846年の人別書上には、57名の僧侶と8名の下男が居住していたことが記されている。
奉行所の裁定と修業道場の認可により、多くの寺院を束ねる天巽派門首寺院として寺院としての地位が確立した清源院を筆頭寺とした「天巽派門末帳」には、その子院、子寺が144寺が挙げられ、お寺の興隆を知ることができる。
「豪族伊東氏について」 (制作:澤田五十二 より)
伊東氏は、藤原氏南家・藤原為憲の流れをくむ工藤氏の一族で、古く平安時代の末期から鎌倉時代にかけて伊豆国田方郡の伊東荘(現在の伊東市)の地を本拠としていた豪族であった。
平清盛が政権を握っていた頃の伊東氏の当主は伊東祐親で、平治の乱で敗れた源義朝の嫡男・頼朝が伊豆蛭ガ小島に流されていたのを監視する役目も負っていた。
この祐親が上洛して大番役に就いていた間に、頼朝と祐親の三女・八重姫が通じて千鶴という男の子を生むという事件が起きた。京から伊豆に戻った祐親は清盛の怒りを恐れ、その子を殺したうえに頼朝も討とうとしたが、次男の祐清が頼朝に急を知らせて北条時政の屋敷に逃がした。
これで助かった頼朝は時政の娘の政子と結ばれ、時政の援助を得て治承4年(1180)に源氏再興の挙兵をしたのである。平氏側について敵対した祐親は頼朝の軍勢に捕えられ死罪になるところ、娘婿の三浦義澄の奔走で助命されたが受け入れず自害したのであった。
また頼朝を逃がした祐清は、頼朝から恩賞を与えられることになったが拒んで西国に下り、平氏側に加わって戦ったが討ち死にした。
その後、伊東氏の一族であった工藤祐経は頼朝に仕えて祐親父子亡き後の伊豆国伊東荘の地を安堵されていたが、建久4年(1193)の「富士の巻狩り」に際に曽我兄弟(祐親の子・祐泰の遺児)に討たれた。しかし祐経の子の祐時はその後に伊東の姓を名乗り、その子孫は各地に広がった。その中の一人が伊東祐光で、九州の日向に勢力を築き、その子孫は江戸時代を通して飫肥藩5万石の大名として存続したのである。
厚木市三田に曹洞宗の巨利、東福山清源院があります。三田地域のほぽ中央、西方丘陵、緑したたる森の中に所在し、禅宗としての巨刹です。この地は、昔北条氏の家臣、越智弾正忠の館跡とも伝えられ、清源院の本尊薬師如来像は、天正年間、越智出雲守の寄進によると伝えられます。
中世末期、天台宗を曹洞宗の名僧、慶順和尚の同時再興によって改宗されたもので、近世においては曹洞宗のこの地方における中心として権威をもっていました。
末寺30余ヵ所、孫末寺125ヵ寺を数えている。同寺の建物は江戸時代中期に炎上し、
天保年間以降の再興になるものが現存しています。
同寺の縁起によると平安時代、伊豆天城山麓の伊東家の香華院(こうげいん=菩提寺のこと)として建立されたと伝えられ、江戸時代に入って旗本、伊東氏の菩提寺となりました。
「厚木の観光ポケットブック」(厚木市観光政策課発行)