南向山帰命院 補陀洛寺(真言宗大覚寺派)
標高 5.2m
ウォーキング地図へ
 文覚上人(は頼朝の挙兵をうながした人)の開山、源頼朝の開基。1181年に源頼朝の祈願所として創建。七堂伽を完備した大寺院だったが、火災や竜巻で多くの伽藍を失なった。当時は境内も1km四方あった。
 本尊の十一面観音菩薩像や薬師如来像(行基の作)、日光・月光菩薩(運慶作)、地蔵像(空海作)などが安置されている。

 源頼朝の供養をする位牌所。

 「補陀洛」サンスクリット語で「ポータラカ」(観音菩薩が住むという南海上にある山のことで、観音浄土を意味する)。日本語に翻訳するとき「補陀洛」の字をあてた。

 はじめは、阿弥陀仏の西方浄土が人々の信仰を集めるが、次第に南の補陀洛浄土への信仰が盛んになっていったという。


 住宅地の中にあり、ひっそりしたお寺なんです。昔はしばしば竜巻に襲われ、別名竜巻寺とよばれている。

 開:9:00~16:00  休:無休  料金:無料 
 この寺は南向山(なんこうざん)という山号をもつ真言宗(しんごんしゅう)の寺で、源頼朝が文覚(もんがく)を開山として1181年(養和元年)に建てたといわれます。もとは七堂伽藍(しちろうがらん)という建物がそろった大きな寺院であったということです。その後、だいぶ荒れてしまいましたが、文和年間(1352~1356年)に、鶴岡八幡宮(つるおかはちまんぐう)の供僧(ぐそう)だった頼基(らいき)が復興したと伝えられています。
 補陀洛寺は別名竜巻寺(たつまきでら)ともいわれ、竜巻にあったり火災にあったりしたようです。寺に伝わるものとして、本尊の十一面観音(じゅういちめんかんのん)をはじめとする仏像や貴重な文化財の多い寺です。

 補陀洛寺は1874年(明治7年)に海傍学舎(かいぼうがくしゃ)という公立小学校になりました。
 海傍学舎は、その翌年材木座学校となり、1876年(明治9年)ころまで補陀洛寺にありました。

 鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より
 門前に「源頼朝公祈願所」の石碑。
 かっては七堂伽藍を構えた大寺だった。明治初年の火災で焼失、関東大震災でほぼ全壊した。
 石の門柱の左手前に、「源頼朝公(みなもとのよりとも)御願所(ごきがんしょ) 補陀洛寺」の石柱が立っています。境内の正面に本堂と庫裏(くり)があり、右手に、境内をおおうように枝をひろげた大きなさるすべりの木が目につきます。

 鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より



・月光菩薩(がっこうぼさつ)、さらに弘法大師(こうぼうだいし)の作と伝えられる地蔵像(じぞうぞう)があります。また、文覚が書いたといわれる源頼朝の位牌(いはい)もありますし、頼朝の自作といわれる頼朝の木像や、文覚が那智(なち)の滝で荒行(あらぎょう)をしたとき彫ったという高さ約30cmの文覚上人像(もんがくしょうにん)もあります。これらの像は、いずれも後世の作とみられます。
 なかでも珍しいものは、「平家の赤旗」といわれるものです。1185年(文治元年) 3月、平氏は壇ノ浦(だんのうら)で滅びましたが、
 作者などはいずれも言い伝えですが、本堂にある不動明王は、天台宗(てんだいしゅう)の高僧の智証大師(ちしょうだいし)の作と伝えられ、平家(へいけ)を倒すため祈ったともいわれています。また、行基(ぎょうき)の作と伝えられる薬師如来像(やくしにょらいぞう)や、運慶(うんけい)作と伝えられる日光(にっこう)







そのとき平家の総大将の平宗盛(たいらのむねのり)が最後まで持っていたのがこの旗だといわれ、捕らえられて鎌倉に来たときにこの旗を頼朝に献上し、頼朝が補陀洛寺に奉納したといわれています。旗には「九万八千軍神」と書かれており、合戦のときにたくさんの軍神に祈ったことがわかります。
これらの寺宝は、公開されていません。

 鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より



實相寺へ
1頁へ  2頁へ