行基の作と伝えられる薬師如来像がおられますが、「薬師如来とは」
今は病気にかかると医療を受けていますが、かつては薬師如来に病気平癒だけを願ったのではなく、七仏薬師のご利益を丸ごと信じ、社会・国家の安寧を願ったのです。
密教の七仏薬師法を行えば、滅重罪(めつじゆうざい)から除病至菩提(じよびょうしぼだい)にはじまって、除病延命、産生安穏(さんしようあんのん)、天変、風雨、時節反逆の難まで、あらゆることにご利益があるとされています。
平安時代には、天皇の病気も天災も、飢饉や疫病などの社会不安の原因も、御霊(ごりょう)の祟りだと考えられていた。御霊とは、政治的陰謀の犠牲になった者の霊のことである。そのためには、抽象的なご利益ばかりの他の如来より、病気治療をはじめ、呪詛を封じ、災害や反逆から護ってくれる薬師如来は頼りになったのでしょう。ちなみに、聖武天皇が全国に建立させた国分寺の本尊は、今は代わっているものも多いのですが、当初は薬師如来だったらしい。
弘法大師空海を師として仰いだ文覚上人は、もともとは武士で、俗名を遠藤盛遠といった。豪勇粗暴な性格であった遠藤盛遠は、友人である左衛門尉(じよう)・源(渡辺)渡(わたる)の妻・袈(け)裟(さ)御(ご)前(ぜん)に激しい恋心を燃やし、強引に結婚を迫っていた。
一方の袈裟御前は、
「自分には夫がいるので」
と、それを拒み続けたのだったが、盛遠は簡単に諦めるような男ではなかった。
盛遠のあまりの強引さ、しつこさにとうとう疲れ果ててしまった袈裟御前は、夫の渡を殺してからであれば
うたれ続けるなど、その荒行ぶりは群を抜いていた。
そのときの那智の滝修行で仮死状態にまでおちいり、川に流されたあげくに生死をさまよった文覚は、遠のく意識の中で不動明王に仕えるふたりの童子に救出され、一命をとりとめたと伝えられている。
一緒になってもいいと、盛遠に告げるのであった。
それを聞いて大喜びした盛遠は、袈裟御前との打ち合わせ通りに、渡に深酒をさせ、寝入ったところに忍び込みとどめを刺した。
「これで袈裟御前はオレのものだ」
心の中でそうつぶやいた盛遠だったが、このとき盛遠が殺したのは渡ではなく、なんと袈裟御前であったのだ。
自分に対して異常なまでに情念を燃やす盛遠からは、もう逃げられないと思った袈裟御前は、愛する夫が殺される前に、盛遠が自分を殺すように仕向けたのであった。
このことによって、己のあやまちに気付いた盛遠は泣き叫び、激しく自分を責め、ことのすべてを渡に打ち明けて、自分を打ち首にしてくれと頼み込むのだった。
しかし、そのことに無情を感じた渡は、盛遠に対して何も言葉をかけず、出家した。
このとき、大きな罪を犯したうえ、自分を見失っていた盛遠も、自分の罪を償おうと、出家することを決意する。
出家した後の文覚の修行ぶりは凄まじく、真夏の藪の中を裸で歩き回って虫に刺される苦行をおこなったり、真冬の那智の滝に二十一日間