弁財天は、七福神のなかで唯一の女性は、美と才能、財宝を生み出す女神です。もとは「水のカ」を象徴するインドの女神サラスバティーです。
弁財天は古代のインドにおける川の神(女神)で、水の神と農耕の神として信仰されていました。
日本には中国と朝鮮を経由して、初めは仏教の守護神として伝わったといわれています。その当初の姿は守護神らしく宝珠・剣・弓矢などを持つ像でしたが、鎌倉時代になってから琵琶を弾く姿に変わり一般化し、芸能の神とも呼ばれるようになりまた。
さらに江戸時代に入ると学問・音楽・除災・至福を与える神として、広く一般庶民に信仰されるようになりました。
一方、宇賀神は古来より日本の神道における固有の神で、その神徳として農耕や食物および財福をもたらすとされていた。その姿は頭が老人で体が白蛇という人頭蛇身の形で表わされるのが一般的でした。
この二つの神が習合して宇賀弁財天となった時期は定かでないのですが、ともに似たような神徳があったことから、そのような習合が生じたものと思われます。かつての厚木村は商業が盛んでしたが、広大な水田を持つ農業の村でもありました。また、相模川での鮎漁や高瀬舟による水運でも栄えていたので、宇賀弁財天は商人・農民・漁師・船頭など多くの職業の人々に尊崇されていたのす。
広沢寺温泉入口の駐車場より1km程行った所に大釜弁財天があります。3m余りの巨石が2つ、掌を合わせたように並んでおり、奥行4mの内部には七沢石で造った蛇の宇賀神(文政5年銘、とぐろを巻いた形)と高さ60cmのほこらの中にはいった弁天様が祭られています。その2つの巨石に前面には渓流が勢いよく流れ、直径1m50cmの一の滝壺、3m40cmの二の滝壷で渦となり次の1m50cmの滝壷、2m80cmの滝壷、2m50cmの滝壷へと巨岩を縫って落下しています。昔は7つの滝壷があり荘厳な眺めであったということです。
鳥居や燈寵3基が入口に建てられ、れっきとした神様として祭られていますが、実は弁天様は仏教に属する仏様であり、美しい仏様が神社に祭られ信仰されているのは奇妙なことですが、一般の庶民は、ただひたすら身近な御利益だけを願い仏様を神様にして拝んだのでしょう。
大釜弁財天では、かつて日照りが続いた時、村中はもとより近郷近在の農家の人々が相寄り、お坊さんを頼み、大釜の内部に入ってお経をあげてもらった後、お坊さんが出てくるところを人々がバケツや手桶で水を掛けたり、滝壷の水をかい出したりするとともに、雨を降らせる一心から宇賀神を怒らせる素朴な願いで身に付けている六尺揮(ふんどし)をはずし、その褌で蛇を洗って雨乞いが行われていました。
そして、毎年4月の初巳を祭日としていたとのことです。
(「厚木の観光ボケットブック」(厚木市観光政策課発行)より)
高遠の石工が、江戸中期の初めの頃に出稼ぎで、厚木の七沢辺りに来ていました。この辺りは石造物に適した石を産する石山があったので、そこから取れる石を加工し、石造物を作り、相模国の各地に売っていました。
高遠の地は田畑が少なかっただめに農家の次、三男が働くほどの農作業の仕事がなく、高遠藩はその対策として、石工や木地師その他の職人になることを奨励ししました。そのような背景がありました。しかし高遠の領内だけでは仕事の量が限られているため、他国への出稼ぎをしていました。
仏教の福神の宇賀神(うがじん)は、日本古来の食物神の倉稲魂命(うかのみたまのみこと)のことで、お稲荷さん(稲荷神(いなりのかみ))と同神であるともいわれる神様です。
日本古来の食物神だった宇賀神が、仏教の弁才天と習合して今日のような福の神になったのです。
両者の共通性は水神信仰で、弁才天はインドの河の神で、日本に渡来してからは在来の水神信仰と結びつきました。
一方の宇賀神もまた農業に深く関係する水神とも非常に縁が深いのです。
岩の重なりで出来た祠があります。
手前に、蛇の宇賀神があります。
信州の他にも甲斐・相模・武蔵・駿河・上野などの各地に石工が集団をつくって出稼ぎに出かけるようになっっていました。