甘縄神明宮
長谷一丁目12番1号 標高 18.3m
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 長谷の鎮守。710年行基が草創し、豪族染谷時忠(由比の長者)が建立。鎌倉で一番古い神社(ただし、昭和の町村合併で鎌倉市内では龍口神明社が最古の神社)。

 平安時代中期の武将 源頼義(よりよし)が甘縄神明宮で子供が欲しいと祈願したところ、本当に子供を授かったことから“子宝のご利益がある神社”として有名になった。

 源頼義は陸奥合戦を契機にして多くの東国武士団を組織し、武士の棟梁(とうりょう)としての源氏の地位を確立したともいわれる武将である。
 俗に甘縄神明と呼ぶ。祭神天照大御神・配祀倉稲魂命・伊邪那美命・武饗槌命・菅原道真。例祭九月十四日。元村社、長谷区の氏神社。社伝では天平年中の勧請という。
 『相州鎌倉郡神輿山甘縄寺神明宮縁起略』によると、和銅三年(710)八月行基の草創。染谷時忠が山上に神明宮、山下に円徳寺を建て、のち源頼義が相模守となって下向した時、平直方の女を娶り、当社に祈って八幡太郎義家をこの地で産んだと伝える。直方は時忠の婿であった。
 背後の山は神輿尼岳といい、『萬葉集』に見える。このあたり大庭御厨の一部であったので神明宮の奉斎があったらのであろう。『吾妻鏡』に記載の見える古社で、源頼朝・政子らの参拝・奉幣があり、安達盛長が守護に当り、社前に住みその子孫は歴代ここを住居とした。
(「鎌倉事典」 白井永二 編より)
 「足達盛長(あだちもりなが)邸址」の石碑のそばにある石の鳥居は特色ある神明(しんめい)鳥居です。石段の下に小さな井戸があり、「北条時宗公(ほうじょうときむねこう)産湯(うぶゆ)の井」という札が立っています。時宗は松下禅尼(まつしたぜんに)の孫で、足達氏の邸(やしき)で生まれていますからこのような
伝説が生まれたのでしょう。
 江戸時代には甘縄院というお寺がそばにありましたが、明治になるとなくなりました。9月14日は例祭で、神輿(みこし)や山車(だし)が出てあたりは賑わいます。




 急な石段を上ると甘縄神明神社の拝殿と、その奥に本殿があります。この神明神社は天照大御神(あまてらすおおみかみ)をまつる神社です。神社の縁起(えんぎ)では、奈良時代の和銅年間(708年~715年)に、このあたりの豪族の染屋太郎時忠(そめやとろうときただ)が建てた鎌倉で一番古い神社だといわれ、長谷の鎮守(ちんじゅ)です。このことから、前に海、後ろは山という長谷のあたりが鎌倉では早くから開けたところだと考えられます。
 拝殿の屋根は青銅色で美しく、「かつお木」というカツオ節のような木が5本あり、左右の端には、
生まれたと伝えられています。それでこの神社のご神体は義家の守り神といわれたそうです。後に義家が社(やしろ)を再建したといわれており、源氏と関係の深い神社だったと考えられます。
 鎌倉時代には頼朝(よりとも)や政子(まさこ)・実朝(さねとも)らがお参りしていることや、鎌倉時代の本にも伊勢別宮(いせべつぐう)と呼ばれていることが見られます。有力な御家人(ごけにん)の安達盛長が守護にあたり、幕府からも敬(うやま)われていたようです。

 鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より
 手水舎。
「千木(ちぎ)」という交差して空に突き出た木が突き出た木がついています。

 本殿は拝殿の後ろに、山にはさまれるようにして建てられています。拝殿よりやや小型ですが、軒下や周囲の造りは立派なものです。振り返ると、長谷の町
や由比ケ浜が見渡せます。

 甘縄の「甘」は海女(あま)のこと、「縄」は漁をするときの縄の意味だろうという説もあります。
 その後、源頼義(みなもとのよりよし)が相模守としてこの神社にお祈りをしたあと、義家(よしいえ)が




















 北条時宗公産湯の井……北条時宗は、モンゴル帝国の二度にわたる侵攻(元寇)を退けた人。

 中国から日本へ渡来した無学祖元(むがくそげん)は、元の襲来を前にした北条時宗に、一喝を加えて励ました。
「莫煩悩(まくぼんのう)」=「煩悩する莫(なか)れ」
 現在の情況をありのまま見ることを怠り、ありもしない妄想にふりまわされてノイローゼになることを戒めたのでした。元軍ニ○万の妄想を払うと、作戦がはっきりしてきたのです。
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