1278年、鎌倉時代に創建。熊野大社を勧請して創建された。500mほど南側にある光触寺の鎮守社で、熊野信仰が武士や庶民に広まりを見せていた時期であった。
光触寺の境内にあった熊野十二所権現の社を1838年に現在地に移転し、明治の神仏分離策の推進により社名を十二所神社と改めました。
・神仏分離策の推進
明治政府の首脳たちは新しい政治体制の構築に追われたが、最初に制定したのが慶応4年(1868年)3月に布告した「神仏判然令」である。この法令は、古代から続いてきた神仏混淆を否定し、すべての神社から仏教色を除くために、様々な規制や義務を課す内容のものであった。
この法令に基づいて初めに全国の神社に対して命じたのは、神社に所属している別当や社僧を還俗させることで、それらの者が僧籍から抜けることを指示したのである。
この神社は昔、熊野十二所権現社(ごんげんしゃ)といって1278年(弘安元年)には光触寺(こうそくじ)の境内にありました。1838年(天保9年)に今の土地を寄付する人がおり、当時30戸の村人の協力で神社を移しました。明治になって神仏分離(しんぶつぶんり)となり、天神七柱(あまつかみななはしら)、地神五柱(くにつかみいつはしら)の十二柱の神様をまつり、社名を十二所神社と改め、今日に至っています。
社殿に向かって右手に小さい社(やしろ)が三つ、山の神社・ほうそう神社・宇佐八幡社(うさはちまんしゃ)と並んでいます。鳥居の右に百貫(かん)石といわれる石が置かれ、その右奥に神楽(かぐら)殿があります。百貫石は、実際には28貫(約112kg)あり、以前は、祭のときにこれを持ち上げたり、かついだりして自慢した人もいたそうですが、今はためす人もいません。また、左側には地主(じぬし)神をまつる社もあります。
鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より
それぞれ主神としている。
三つの神社はたがいに他社の主神を勧請して三神を祀るようになり、現在はどの社でも〈熊野三所権現〉が祀られている。
三山創立の時期は古いが、平安時代初期に修験道が成立して以来、熊野三山は山岳仏教修行の道場として重要視されるようになり、本宮の阿弥陀如来、新宮の薬師如来、那智山の観音菩薩を本地仏とする熊野信仰が広まった。
熊野の地自体が観音の〈補陀落(ふだらく)浄土〉熊野三山の信仰は都人にも広まり、
熊野権現:「霊験あらたかな熊野に鎮座する山の神」
阿弥陀如来・薬師如来・観音菩薩を本地とする熊野三山
熊野権現は和歌山県、紀伊半島南端の熊野本宮大社(本宮町)、熊野速玉大社(新宮市)、
熊野那智大社(那智勝浦町)の三社をさし、(熊野三所権現)ともいわれる。本宮・熊野坐(にます)神社は家都御子神(けつみこのかみ)=素菱鳴尊(すさのおのみこと)、新宮・熊野速玉神社は速玉男神=伊邪都岐命(いざなぎのみこと)、熊野那智神社は夫須美神(ふすみのかみ)=伊邪那美命(いざなみのみこと)を
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であるという考えも生まれ、平安時代後半になると、
皇族・貴族から庶民にいたるまで、熊野詣がさかんになっていった。
朝廷の信仰も厚く、延喜七年(907)の宇多法皇の御幸を皮切りに、十二世紀の院政期には鳥羽上皇が二十一度、後白河法皇が三十四度、後鳥羽上皇が二十八度など、上皇・法皇の御幸だけでも
百度におよぶ熊野詣がなされた。
さらにこの三所権現に若宮、聖宮などの〈五所権現〉と、十万金剛童子(じゅうまんこんごうどうじ)などの〈四所権現〉を加えた〈十二所権現〉も信仰され、これら諸神にも、それぞれ本地仏があてられた。