十二所神社(天神七柱 地神五柱)
  標高:m
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「蟻の熊野詣」という言葉を生むほどさかんな熊野信仰

 熊野へいたる経路には紀伊半島西岸を通る〈紀路〉と東岸を通る〈伊勢路〉があり、後に熊野街道とよばれた。都からのルートとしてより多く利用された紀路沿いには、熊野九十九王子の社が安置され、道標や休息所として利用された。「蟻の熊野詣」ということはが生まれるほど、当時の熊野への旅は賑わいをみせた。
 中世の熊野詣は、京都から淀川を船でくだり、いまの大阪市天満付近で上陸する。そして熊野街道〔紀路〕を
二つの峠越えがあり、再び本宮におもむいてから、もときた道を引き返す。
 吉野の金峯山・蔵王権現から熊野三山にかけては一大修験道場ともなった。真言修験・当山派の本拠である蔵王権現とともに、天台修験・本山派の本拠である熊野権現信仰は全国を風靡した。
 中世末になって熊野詣は衰微してしまうが、代わって西国三十三か所観音霊場札所めぐりがさかんになる。その一番札所が那智の青岸渡寺(せいがんとじ)で、二番札所の紀三井寺(和歌山市)への経路に新宮、本宮が位置している。
海岸沿いに田辺へ向かい、険阻な山越えの道、〈中辺路(なかへじ)〉に入って本宮へ。そこから熊野川を船でくだって新宮に詣でる。次に海岸伝いに那智の浜の宮(いまのJR那智駅付近)へ。さらに那智川に沿って登っていくと、那智神社のご神体で、日本三大潔布のひとつ、那智の滝が姿をみせる。
 那智川でとれる〈那智黒〉とよばれる黒く硬い珪質粘板岩は、碁石や硯石などの材料として知られる。那智の滝の滝壼の水は、古来より延命長寿の霊薬として有名だ。
 三山の巡拝の帰路には、中辺路最大の難所の〈大雲取越え〉、〈小雲取越え〉という








そのため近世以降も熊野詣は絶えることはなかった。〈熊野古道〉が世界遺産に認定された平成の現代まで、多数の人びとによって熊野詣はつづけられている。
 八幡神の誉田別尊とは第十五代応神天皇のことで、仲哀天皇と神功皇后(息長帯比売)の子供である。が、比売大神の正体は諸説あってはっきりしない。八幡神は託宣をよくする神で、ことあるごとにお告げが出される。養老三年(719)、大隅・日向の隼人(はやと)が反乱を起こすと、八幡神は託宣により神輿を奉じて日向まで神官・僧侶とともに行幸して鎮めた武神である。そして、宇佐八幡宮が武家の守護神となった。
疱瘡神(天然痘をもたらす疫病神)と宇佐八幡。

 昔の人は、疱瘡神を丁寧にお祀りする事によって天然痘の流行を抑えようとし、もし感染したらその症状を和らげてもらおうとした。
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