鎌倉公方足利氏満開基となり、曇芳(どんぽう)(1399年没)を開山として臨済宗建長寺宝珠庵の末寺として建立。
1430年再建。その後何度か衰退を繰り返したが小田原北条氏の時代お堂が再建された。また、換室宗応(かんしつそうおう)という僧が代官平岡岡右衛門吉道とともに曹洞宗に改宗し、津久井の功雲寺末寺として再度開基された。
1649年に寺領十石の朱印状(寄進状)が与えられている。
長松寺三世大林和尚逸話
大林和尚は相州西郡小田原領田方村の出生である。若い時行脚ばかりしていて、師匠の義天和尚のもとにいることはほとんどなかった。ある時大林を呼んで「西行法師は歌詠みだから、一生諸国を廻り歩いて無庵であった。お前もその類だろう」と叱りつけた。大林答えて「お叱りはどもっともです。しかし私は死後にせめて西行の七分の一ぐらいの名を残したく存じています」といったという。
義天和尚臨終の時、大林は西郡赤田村太鼓庵にいた。師匠危篤の知らせに驚いて、とるものもとりあえず駈けつけたが、ついに最期に間に合わなかった。あるものがつぎのような狂歌を詠んだ。
「てれつくと 打ってとむらう 太鼓庵 永の旅にて 悪しき空かな」
加賀の殿さまが新戸へ鷹狩りに来られた時は、いつもお宿は安藤家であった。その際大林和尚が能書家だという評判を聞かれて、大字を所望された。そこで和尚は加賀百万石の大守が相手なので、「国」という字を二間四方の紙に書いて差し上げ大変に喜ばれたという。
前田家では新戸の鷹狩りのたびごとに、金子三千両壱分ずつ持参した。しかし新戸部落のものたちはお宿をするだけで十分だと思って、諸色を売ることはしなかった。そこで小田原・伊勢原・厚木・八王子辺の商人たちが集って来て、間口一間のところを金子一分で借り受け、店棚をつくっていろいろな品物を陳列し、大もうけをした。
(相模原民話伝説集 改訂増補 著者:座間美都治より)
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悟りを得られなかった人間が、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天の六道のなかを輪廻することから救うため、「六地蔵」が生まれました。
釈迦は入滅の際、仏法を護って伝えていくよう十六人の弟子に遺言したと。
十六羅漢のうち代表的なのが、賓頭盧(びんずる)尊者。すぐれた神通力を人前で披露したため、釈迦に呵責(かしゃく)されたと伝えられます。