祭神:護良(もりよし)親王(別称:大塔宮)(後醍醐天皇の第一皇子)
明治天皇は、哀しい最期をとげた護良親王(武家から天皇中心の社会へ復帰させることを目的とした建武中興に尽力した親王)の功の偉勲をたたえるべく、神社造営の勅令を発し、東光寺跡に1869年7月創建された。
本殿の後方にある土手の穴が、親王がおよそ9か月間幽閉されていた土牢であるという古伝承がある。
このあたりは、護良親王が、足利直義に幽閉された東光寺のあった所です。
二階堂に鎮座。護良親王の通称である大塔宮(おおとうのみや)に因み、地元では大塔宮ともいわれている。祭神は護良親王。境内に摂社南方社(祭神南ノ方)村上社(祭神村上義光)がある。例祭八月二十日。もと官幣中社。明治二年七月勅令により創建。明治六年、明治天皇の行幸があり、その行在所は一部宝物の陳列所としている。境内は東光寺跡。本殿背後に土牢があり、祭神幽閉の処といラ。親王の墓は東北にあたる理智光寺趾の山頂にあって、宮内庁の所管である。九月二十二、三日の両夜、観光協会の主催で薪能が奉納される。(白井)
[文献]『市史』社寺編
白い大鳥居をくぐると、入母屋造りの拝殿があります。拝殿の右側の宝仏殿には、御祭神として護良親王像が収められ、八月二十日には、護良親王にちなんで毎年、例祭が行われています。
九月二十一、二十二日の夜には、境内に設置された野外舞台で、薪能が開催されれます。
鳥居を建て替えたとき、その時の宮司が上部を「赤」、その下を「白」にしたそうです。
護良親王は天台の座主になっていましたが、その座を降りて還俗し、名を護良と改めて、後醍醐天皇の幕府討伐計画に参画する。千早(ちはや)城の楠木正成と協力し、北条氏の軍勢を吉野城で苦しめ、幕府討伐に貢献しました。
建武の親政では征夷大将軍に任じられたのですが、足利尊氏と衝突し、結局、尊氏に捕らえられて鎌倉に流され、東光寺の土牢(鎌倉宮本殿にあった座敷牢)に幽閉されてしまうのです。
建武二年(1335)に北条時行が鎌倉に乱入した際(中先代(なかせんだい)の乱)には、
護良親王が建武の中興を成し遂げたときに、獅子頭を兜につけていて幸運を呼んだことから、獅子頭を模した幸運のお守りがあります。
鎌倉にいた足利直義の配下でもある淵辺義博(ふちのべよしひろ)の手によって殺害されたのです。
また、別に石巻伝説なるものがあります。
淵辺義博は直花の命は受けたが、親王のお背に刃をあてるに忍びず、鎌倉の由比が浜から船出をした、
家臣とともに親王をお連れして逃れ、陸前国牡鹿郡の一皇子神社にお祀りしたといわれ、まだ親王が後醍醐帝の冥福を祈った碑もあるといいます。付近にはその隠棲を物語る御隠里・殿原小路・大門崎などの地名もあり、その時お供した従士八名の子孫も現に健在であると伝えています。