沼名前神社(ぬなくまじんじゃ)
福山市鞆町後地  標高:23.7m
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 「沼名前神社」は、鞆の浦の西方の山麓に位置する神社。鞆の浦で行われる多くの祭の舞台となるこの神社は、平安時代の延喜式にも記載されている由緒正しい神社です。海上安全に効験のある大綿津見命(おおわたつみのみこと)を祀る「渡守(わたす)神社」と、須佐之男命(すさのおのみこと)を祀り無病息災を祈願する「祇園社」。その二つの神社が明治時代に統合され、沼名前神社となりました。名前は変わりましたが、今でも鞆の浦の人びとは、この神社を「祇園さん」と呼んで親しんでいます。(関西もそうですが、神社を「○○さん」と、「さん」づけで呼びます。)

[文化財]
・能舞台(国指定重要文化財)
・二の鳥居(広島県指定重要文化財)
・石燈籠一対〈拝殿前〉、力石、翁面(福山市指定重要文化財)
 現在の沼名前神社は、明治に渡守神社(わたすじんじゃ)・鞆祇園宮(ともぎおんぐう)を合祀し、『延喜式』神名帳の記載にならって「沼名前神社」と改称したものです。神社側では、渡守神社が『延喜式』神名帳所載の式内社で、同社が現在に至るとしています。現在の祭神二柱(大綿津見命・須佐之男命)は、それまでの各社の祭神です。


 今から千八百数十年前、第十四代仲哀天皇の二年、神功皇后が西国へ御下向の際、この浦に御寄泊になり、この地に社の無きことを知り、斎場を設け、この浦の海中より涌出た霊石を神璽として、綿津見命を祀り、海路の安全をお祈りになられたのが、当社の始まりです。
 さらに、神功皇后御還幸の折、再びこの浦にお寄りになり、綿津見神の大前に稜威の高鞆(いづのたかとも(弓を射る時に使った武具の一種)を納め、お礼をされたところから、この地が鞆と呼ばれるようになりました。


[神功皇后をめぐる、次のような伝承が残されている。]

 北部九州に遠征し、さらに朝鮮半島に攻め込もうとした神功皇后は、竜宮城の海神に妹を差し向け、「その昔海神と私(神功皇后)が親子だったよしみ」で協力してほしいと頼み、呪術に用いる[玉]をもらい受けた、といいます。
 随身門

 神社の外郭の門で,兵仗(ひょうじょう:実戦用の武器)を帯びた随身の像を左右に安置し、像は、俗に矢大神・左大神といいます。享保20(1735)年の建造物です。
 伊邪那岐命(いざなぎのみこと)は、死んだ妻を連れ戻しに黄泉国(よみのくに)へ出かけた、死の繊れを清めようと、九州の日向の地で襖祓(みそぎはらい)をする。全身水に入り、すっかり体を清めたところで、左目を洗うと天照大御神が、右目を洗うと月読命(つくよみのみこと)が、そして鼻を洗うと須佐之男命(すさのうのみこと)が生まれた。伊邪那岐命はたくさんの子をもうけた最後にもっとも貴い子たちが生まれたと喜び、天照大御神には天の高天原を、月読命には夜の世界を、須佐之男命には海原を治めるようにと命じた。
祭神二柱は、大綿津見命・須佐之男命。






 明治八年に官命によって社名が「沼名前神社」に改名され、同時にそれまで摂社として祀られていた渡守神社(わたすじんじゃ)の祭神、大渡津見命(おおわたつみのみこと)を本殿に鎮め、須佐之男命(すさのおのみこと)が本殿より遷り祀られました。
 海原を治めるはすの須佐之男命は従わずに泣いてばかりいる。どうして泣くのかと聞くと、根の国にいる母・伊郷那美命に会いたいという。怒った父・伊邪那岐命に追い出された須佐之男命は高天原へ。天照大御神は弟が高天原を奪いに来たと思うが、須佐之男命は否定する。
そこで二神は占い(誓約(うけい))でどちらが正しいかを決めることにした。その結果、須佐之男命は自分の正しさが証明されたと大暴れし、田を壊したり大事な儀式をする場に糞をしたりする。とうとう彼の乱暴で機織(はたお)りの女牲が亡くなると、天照大御神は恐れをなして
天の石屋のなかにこもってしまう(天の石屋隠れ〉。すると世界は賠閣に包まれた。太陽神が隙れる事件を起こした暴れん坊の須佐之男命は、嵐の神と解釈される。なお後に、高天原を追放された須佐之男命は、地上界・革原中国の出雲へ向かい、そこで暴君から一転し英雄となる。




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