「沼名前神社」は、鞆の浦の西方の山麓に位置する神社。鞆の浦で行われる多くの祭の舞台となるこの神社は、平安時代の延喜式にも記載されている由緒正しい神社です。海上安全に効験のある大綿津見命(おおわたつみのみこと)を祀る「渡守(わたす)神社」と、須佐之男命(すさのおのみこと)を祀り無病息災を祈願する「祇園社」。その二つの神社が明治時代に統合され、沼名前神社となりました。名前は変わりましたが、今でも鞆の浦の人びとは、この神社を「祇園さん」と呼んで親しんでいます。(関西もそうですが、神社を「○○さん」と、「さん」づけで呼びます。)
[文化財]
・能舞台(国指定重要文化財)
・二の鳥居(広島県指定重要文化財)
・石燈籠一対〈拝殿前〉、力石、翁面(福山市指定重要文化財)
現在の沼名前神社は、明治に渡守神社(わたすじんじゃ)・鞆祇園宮(ともぎおんぐう)を合祀し、『延喜式』神名帳の記載にならって「沼名前神社」と改称したものです。神社側では、渡守神社が『延喜式』神名帳所載の式内社で、同社が現在に至るとしています。現在の祭神二柱(大綿津見命・須佐之男命)は、それまでの各社の祭神です。
今から千八百数十年前、第十四代仲哀天皇の二年、神功皇后が西国へ御下向の際、この浦に御寄泊になり、この地に社の無きことを知り、斎場を設け、この浦の海中より涌出た霊石を神璽として、綿津見命を祀り、海路の安全をお祈りになられたのが、当社の始まりです。
さらに、神功皇后御還幸の折、再びこの浦にお寄りになり、綿津見神の大前に稜威の高鞆(いづのたかとも(弓を射る時に使った武具の一種)を納め、お礼をされたところから、この地が鞆と呼ばれるようになりました。
[神功皇后をめぐる、次のような伝承が残されている。]
北部九州に遠征し、さらに朝鮮半島に攻め込もうとした神功皇后は、竜宮城の海神に妹を差し向け、「その昔海神と私(神功皇后)が親子だったよしみ」で協力してほしいと頼み、呪術に用いる[玉]をもらい受けた、といいます。
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明治八年に官命によって社名が「沼名前神社」に改名され、同時にそれまで摂社として祀られていた渡守神社(わたすじんじゃ)の祭神、大渡津見命(おおわたつみのみこと)を本殿に鎮め、須佐之男命(すさのおのみこと)が本殿より遷り祀られました。
海原を治めるはすの須佐之男命は従わずに泣いてばかりいる。どうして泣くのかと聞くと、根の国にいる母・伊郷那美命に会いたいという。怒った父・伊邪那岐命に追い出された須佐之男命は高天原へ。天照大御神は弟が高天原を奪いに来たと思うが、須佐之男命は否定する。
そこで二神は占い(誓約(うけい))でどちらが正しいかを決めることにした。その結果、須佐之男命は自分の正しさが証明されたと大暴れし、田を壊したり大事な儀式をする場に糞をしたりする。とうとう彼の乱暴で機織(はたお)りの女牲が亡くなると、天照大御神は恐れをなして
天の石屋のなかにこもってしまう(天の石屋隠れ〉。すると世界は賠閣に包まれた。太陽神が隙れる事件を起こした暴れん坊の須佐之男命は、嵐の神と解釈される。なお後に、高天原を追放された須佐之男命は、地上界・革原中国の出雲へ向かい、そこで暴君から一転し英雄となる。