松光山 啓運寺(日蓮宗)
材木座3-1-20 標高 5.9m
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 材木座所在。日蓮宗。山号は松光山。開山は啓運日澄という。寺史は明確でないが、『鎌倉志』は長勝寺の項で「寺僧云、近来妙法寺と、啓運寺と寺号歴を易たり。辻町の啓運寺は、元妙法寺なるを、今は啓運寺と云ひ、名越の妙法寺は元啓運寺なるを、今妙法寺と云ふ。其謂を不知」と記す。建物・本尊なども新しい。境内稲荷社の神体木造船守稲荷神像をも本堂内にまつっている。
[文献]『市史』社寺編  「鎌倉事典」白井永二編より
 開山は啓運日澄(けいうんにっちょう)です。日澄は、大町名越(おおまちなごえ)の同じ日蓮宗の妙法寺(みょうほうじ)の住職をしていましたが、1483年(文明15年) にこの啓運寺を創立したということです。創立当時お堂は、松葉ケ谷(まつばがやつ)に建てられましたが、その後現在の場所に移転してきたといわれています。
 日澄は、博学で多くの知識をもち、徳の高い名僧といわれた人で、法華経(ほっけきょう)を研究して55巻からなる『啓運抄(けいうんしょう)』という書物を1503年(文亀3年)出版しています。そのほかにも多くの本を書き残した学僧でした。
 1510年(永正7年) に日澄がなくなった後は、小さい寺だったので専任の住職がいないままに、1907年(明治40年)まで、日蓮宗長勝寺(ちょうしょうじ)の末寺として長勝寺の住職が兼務していましたが、その後、長勝寺を老齢で退職した住職がこの啓運寺の専任住職になってから、現在まで住職のいる寺として続いています。
 1876年(明治9年)頃、ここに桑楊(そうよう)学校という小学校が建てられ、乱橋(みだればし)・材木座(ざいもくざ)・大町の三ケ村の子ども達が通いました。その後1882年(明治15年)に、光明寺(こうみょうじ)の千手院(せんじゅいん)境内に移り、乱橋・材木座の子ども達だけが通い、大町村の子ども達は、別願等に建てられた大町学校に通いました。
 また、明治の中ごろ、洋画家として有名な黒田清輝が、この寺の本堂をアトリエに使い、「日蓮の辻説法(つじせっぽう)」の名画を描いたということです。
 鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より
 本堂には本尊として三宝本尊(さんぽうほんぞん)と曼荼羅(まんだら)や日蓮上人(にちれんしょうにん)像がまつられています。ほかに「船守稲荷(ふなもりいなり)像」もまつられています。境内の稲荷社のご神体で、波の上の舟と狐に乗る珍しい像です。海難のお守りとして、船員や漁師の信仰をあつめていたということです。
 鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より
 鎌倉時代に作られたとされる石塔。
 昔の人は「きつねは稲荷さまのお遣いで神通力があり、人間にとって良いことも悪いこともする」と信じていた。神様のお遣いであるきつねを殺しでもしたら恐ろしいたたりがあり、たとえ石を投げたりおどしたりしただけでも、その人の顔をよく覚えていて、夜になると大勢の仲間を集めてその家に押しかけ、
家畜を喰い殺したり家を壊したりして一晩中あた(仕返し)をするといわれていた。
 人びとはきつねが人をばかにしたり、人里をうろついてわるさをしたりしても、じつと我慢して、きつねに恨まれないように気をつけていた。もの日には好物のあぶらあげなどをお供えしてごきげんを
とっていた、とか。

 お稲荷さんは、民間信仰から自然発生的に生まれた神様です。その数は約四万社とも十万社ともいわれています。




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