鎌倉最古の厄除開運の神社。平安末期に疫病が流行。その時に、源義光が京都祇園社の祭神をここへ勧請したのが始まり。
古くは祇園天王社・祇園社と称したが、明治維新に八雲神社に改称された。
1080年頃に大発生した黒蜘蛛が疫病を蔓延させたが、当時「蜘蛛は益虫」とされていたため駆除ができなかった。 そこに中央より新羅三郎義光(八幡太郎吉家の弟)が、「朝見た蜘蛛は逃がせ、夜見た蜘蛛は殺せ」というスローガンをかかげ、多くの蜘蛛を焼き殺し駆除に成功した。その後、蜘蛛のたたりを恐れ神社が建てられた。当初「焼蜘蛛神社」では気持ちが悪いため、間もなく「祇園天王社」と改められ、その後、「八雲神社」になった。
もとは焼蜘蛛(やくも)神社だったとか。蜘蛛は巣にかかった獲物に牙を刺し毒を注入、そして食べるものがいます。たまたま日本の蜘蛛は、牙が小さかったり力が弱かったりで、人には危害を及ぼしていません。ただ、鎌倉時代には人に危害を及ぼす蜘蛛がいたのでしょうか?
明治維新のとき、「神仏分離令(通称)」が出されたとき、「祇園」は釈迦の教化活動の拠点の一つであったことから、神社において「祇園」という名前が使えなくなり、もとの名前が「焼蜘蛛(やくも)神社」だったので、「八雲神社」という名前にしたのでしょうか?
八雲神社は、もと祇園天王社(ぎおんてんのうしゃ)と呼ばれていました。1087年(寛治元年)弓馬の名将といわれた新羅三郎義光(しらぎさぶろうよしみつ)(源義光(みなもとのよしみつ))が、後三年(ごさんねん)の役(えき)で兄八幡太郎義家(はちまんたろうよしいえ)(源義家(みなもとのよしいえ))の援護のため奥州(東北)へ下るときに鎌倉を通り、疫病(えきびょう)が流行して人々が苦しむようすをみて、京都京都祇園(ぎおん)社の祭神をここに移して祭ったと伝えられています。鎌倉では古い神社の一つです。
祭神は、素戔嗚尊(すさのおのみこと)とその妃の稲田比売命(いなだひめのみこと)、その子の八王子命(はちおうじのみこと)で、大町を守護する鎮守(ちんじゅ)として地域住民に敬(うや)まわれています。地元では八雲さんとかお天王さんと呼んで親しまれています。
八雲神社は厄除(やくよ)けの神なので、鎌倉の厄除けの意味もあって、以前は7月7日から14日にかけての例祭には、神輿(みこし)が鎌倉中をまわったということです。八雲神社は鎌倉最古の厄除開運(やくよけかいうん)」の神社といわれています。
鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より
もとは祇園天王社だったのですが、「祇園」は仏教でも使われていた名前のため、明治維新の神仏判然令の公布により、全国の「祇園」の神社は名前を変えました。それだけに留まらず、仏像の破壊にまで及びました。
神社内に祀られていた仏像は寺院などに移して破壊の難を逃れたものもありますが、境内や路房に置かれていた石仏などの多くが割られり削られたりしました。
天照大御神の弟・須佐之男命(素戔嗚尊)は神仏習合のなかで祇園精舎の守護神、牛頭天王(ごずてんのう)と同一視された。習合した理由はどちらも荒神(あらがみ)だからという説など、諸説が存在する。主祭神として祀る神社にはさまざまな系統が誕生し、信仰は全国に広まりました。