834~847年、円仁和尚の草創といわれています。元々は天台宗のお寺でしたが、鎌倉時代の末期の建武3年(1336年)2月、足利尊氏の従軍僧だった道宗雙救上人が今川貞世と共に、光明寺に足を止めたとき智海和尚を助け、自らが大願主となり光明寺を再興し、浄土宗へと改宗しました。
室町時代には村上水軍の信仰を集め、1588年、豊臣秀吉の「海上鎮圧令」により武士を捨て回漕問屋へと生業を変えた後も檀家として寺を支えました。
海上鎮圧令(海賊取締令・海賊停止令)とは、1588年(天正16年)に豊臣秀吉が倭寇に対し
①豊臣氏に従い、大名となる
②豊臣政権の大名の家臣となる
③武装を放棄し、百姓になる」。
この3つを迫った政策です。
またこの寺には尾道ゆかりの第12代横綱・陣幕久五郎の墓があり、彼を顕彰した手形付きの記念碑があります。
境内下には地面を這うように枝を伸ばした「蟠龍の松」は市の天然記念物に指定されていましたが、2019年に寄ったときは、枯れてしまっていました。
むかし尾道でも相撲の興業があり、その関係で第12代横綱陣幕久五郎の碑があります。陣幕久五郎の出身は東出雲(現松江市)出身ですが、出雲と尾道は出雲街道で結ばれており、石見銀山の銀も尾道まで陸路で運ばれ、尾道から船に乗せ替えて運んでいたものもあり、つながりが強かったそうです。
重要文化財:木造千手観音立像 - 平安時代後期の作
ポルトガル人の宣教師ルイス・フロイスが「日本最大の海賊」と呼んだのが、瀬戸内海の能島(のしま)、来島(くるしま)、因島(いんのしま)の三島を拠点とした村上水軍です。
村上水軍は、西日本で幅広く海上の傭兵として働き、来島の村上氏は、室町幕府の公用船や明、朝鮮の交易船の警護を引き受けて利を得ていました。
毛利氏と手を結んで村上一族の最盛期を築いた村上武吉(たけよし)は、能島に巨大な海上要塞をつくりあげました。これは1585年に豊臣秀吉の命を受けた小早川氏の侵攻で焼き払われたの
ですが、のちに能島からは大陸の磁器の破片や輸入銭などがざくざくと発掘され、村上氏の活動範囲の広さを後世に伝えています。