最初は浄土宗で教念寺と称したが、後に廃絶して光福寺となった。
鎌倉幕府の頃の創建で、開山は隆寛律師。律師(1148~1227)、字は皆空(また道空)無我)は以前は天台宗だったが、後に法然上人の浄土宗に移り念仏を説いて継承、法然上人入寂(1212)の祭は五十七日の同士をつとめた。が、比叡山の宗徒の反発“念仏宗の集団化をおそれての弾圧”を受けて、安貞元年(1227)に流罪に処せられた。
毛利庄(今の厚木市内)の領主毛利季光(すえみつ)入道西阿は送領使となったが、隆寛に帰依きえし奥州喜多方へ送る途中、毛利庄に移し飯山の郷に匿かくまい住ませたという。身代わりには弟子・実成じつじょうという僧が送られるが、入寂を知って飯山に駆けつけ、隆寛律師遺骨を喜多方・願成寺に分骨・埋葬した。
なお、成覚坊幸西は壱岐国(阿波で入滅)へ、空阿弥陀仏は薩摩国(出発前日入滅)へ流国となった。
季光は、戦国時代に中国地方で勢力を誇った毛利氏の祖で、大江広元の四男。父大江広元も法然上人の教えに帰依し覚呵と号した。
隆寛の住んだ草庵・阿弥陀堂は辻(飯山の小字・飯山小学校付近)の「隆寛堂」としてあったが、現在は残されてない。
隆寛は当所に住んで4ヶ月後に風邪をこじらせて安貞元年(1227)12月13日に他界された。律師とは官職を示し位が五位に準じる偉い僧侶で、よく戒律を守る僧に与えられる呼び名。
以前は、光福寺前の小川に「西行法師戻り橋」という橋が架かり、“嫁入りのときはここを通ってはいけない”と伝えられていた。
天正年間(1573~91)には、僧春海の中興により浄土真宗に改まって光福寺となっている。
光福寺は武将と高僧の由緒ある関係からか、慶安2(1649)年に徳川氏により寺領十九石五斗の朱印を賜った。
本堂の裏手に、隆寛他界から499年後の享保11(1726)年3月11日に寺の住職により(光福寺由来書)、位牌型の墓碑が建立されている。
桜の時期は、門の両側のさくらがよさそうです。
久保の万年橋
奈良時代のことです。行基(ぎょうき)菩薩がこの地に来て、光福寺前を通りました。そこに小川が流れていたので、行基は橋を架けました。
その橋は以後一度も架け替えたことがないので、
「万年橋」と呼ばれました。一説には、木橋だった時は再三洪水で流されていましたが、石橋にしてから流されなくなったので、万年橋というようになったともいわれています。いずれにしても今は姿を消しています。