鞆港
福山市鞆町鞆  標高:2.3m
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 鞆の浦は、『万葉集』の大友旅人(おおとものたびと)の歌にも詠まれた、全国でも最古の長い歴史を持つ港町で、鎌倉・室町にも江戸時代にも大いに栄えた大都市でした。

 靹の浦の「鞆」とは、弓を引ぐときに手首に巻いた丸い革製の防具のことで、半円形に巻き込んだ海岸の地形が、鞆に似ていることから名づけられたといわれまます。良い港の条件は、水深がある程度大きく、荒天時の波風を避けられる湾や島陰などがあること、そして川がないことで、川が海に流れ込むと、その土砂が堆積して港が埋まってしまうので、川がない方がよいのです。山が迫る海辺が好適地となります。鞆の浦はそうした良港の条件をすべて備えているのです。

 周りを海に囲まれた島国の日本は、遠い昔から明治に至るまで物流は海運によって支えられてきました。海運を担う主要な港町は瀬戸内海や日本海沿岸に分布していましが、特に瀬戸内海は日本経済を支える大動脈と位置づけられ、沿岸の港町は中国や朝鮮との国際貿易船の寄港地として、また中国地方や四国地方の荘園の年貢米を京へ積み出す港として繁栄しました。
 江戸中期頃まで、船の航行能力はさほど高くなく、潮の干満を利用しながら沿岸近くを航行するのが一般的でした。そのため、瀬戸内海のほぼ中央に位置する靹の浦は、干満による強い潮流を応用した航法における「潮待ちの港」として、最も重要な港町だったのです。
 現代の港には、風波から港内を守る防波堤、港の入口を示す灯台、船を着ける岸壁や埠頭や桟橋、そして船の出入りを監理する事務所が設けられていますが、それらの港湾施設は、木造の帆掛け船が行き来していた江戸時代でも、必ずなければならないものでした。江戸時代の防波堤は石垣で築かれた波止(はと)、灯台は石造または木造の常夜灯、岸壁は石造階段の雁木(がんぎ)、事務所は木造の船番所でした。
 759年に編纂された万葉集には鞆の浦を詠んだ歌が八首残されています。

「吾妹子(わぎもこ)が見し鞆の浦のむろの木は常世にあれど見し人ぞなき(大伴旅人)」

「鞆の浦の礒のむろの木見むごとに相見し妹は忘らえめやも (大伴旅人)」
 この港は、エンジンが着いた今の船でも、南からの風が強いと、桟橋に船をつけることが難しいそうです。(連絡船の船長の話)




 鞆の浦の食堂に入ったとき、そこのご主人が「備後地方で採れる魚が一番うまいのですよ」とおっしゃっていました。
鞆港と尾道港を結ぶ連絡船が運航されています。

【運航日】期間限定(3月初旬~11月中旬)の土・日・祝日
 海から見る歴史ある街並みと瀬戸内海ならではの多島美の景色、それに阿伏兎観音(磐台寺観音堂)を海から楽しめます。
陸奥稲荷神社へ:  いろは丸展示館へ:  尾道駅前桟橋へ:
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