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法華堂跡
「法華堂」とは、1189年、源頼朝が聖観音像を本尊として建立した持仏堂のこと。
大蔵法華堂は、源頼朝の墳墓堂であり、鎌倉武士達の精神的なよりどころの場となっていました。これは、鎌倉時代次前半に大きな勢力を持った三浦一族の墓といわれています。そのため、三浦一族がここを最後の場所として選んだのでしょう。
1247年6月5日、三浦対北条・安達の宝治の乱のおり、三浦泰村は館を攻められ、一族を率いて、この法華堂に立て篭もった。北条時頼の兵に攻められ、終に泰村、光村以下の三浦一族と此れに加担した島津、毛利を含めて500人が、この法華堂で自害した。
三浦一族の墓。 大蔵法華堂は、源頼朝の墳墓堂であり、鎌倉武士達の精神的なよりどころの場となっていた。そのため、三浦一族がここを最後の場所として選んだのでしょう。
この上が大江広元の墓です。大江氏は、平城天皇の子孫といわれ、多くの文人・学者などを世に送った一族。大江家の文章道の正流をついだのは国範の弟が大江広元。広元は鎌倉幕府草創期に頼朝に招かれ、公文所別当となり、幕府の基礎を築いた一人。寒河江・長井・那波・毛利などの諸氏は、その子孫です。