1779年、薩摩藩主・島津重豪(頼朝の隠し子の子孫?)が、石段を設けてその上に建てたのが、この墓。
1198年12月27日源頼朝御家人の稲毛重成の亡妻の供養のために、相模川にかけた橋の完成祝いに出掛け、その帰り稲村ガ崎で落馬した。その落馬が原因で、1199翌年1月13日に53歳で亡くなった。大倉法華堂(現在の白旗神社)に葬むられた。
現在の墓は白旗神社のすぐ横の階段を登った所にあり、江戸時代に島津氏によって建てられたもので、高さ186cmの五層の石塔である。
1196年から頼朝が亡くなった1199年までの3年間、鎌倉幕府の公式記録「吾妻鏡」から頼朝の死亡に関する記録が抜けている(仏事の記録はあり)。頼朝の死は謎に包まれていると言われている。
頼朝が自分の子供を跡継ぎにするため、源氏一族の有力者(例えば二人の弟、義経、範頼)を死に追い込んだ。これが、結果的には、頼朝の子供を庇護する人たちを、失うことになったのかもしれない。北条一族は平氏の系列だった。この関連は?
法華堂は中世に身分の高い人の遺骨をおさめたお堂で、頼朝の墓や、山続きの北条義蒔の墓も法華堂でした。
玉垣の中の層塔が頼朝の墓です。昔は法華堂の跡地に1mくらいの五輪塔を残すだけだったようですが、1779年(安永8年)頼朝の子孫だという薩摩藩主(さつまはんはんしゅ)島津重豪(しまづしげひで)によって大御堂(おおみどう)から現在の層塔が移され、近年改修されています。
この場所からは、頼朝のつくった大倉(大蔵)幕府(御所)の敷地が一望のもとに眺められます。
頼朝は、生前に自身が建てた持仏堂に葬(ほうむ)られました。この持仏堂は、法華堂と呼ばれるようになり、大寺院でしたが、江戸時代には、現在の白旗(しらはた)神社の場所に移され、法華堂の跡地に頼朝の墓が立てられたと思われます。
1211年(建暦元年)鴨長明(かものちょうめい)が頼朝の墓にお参りして、昔のようすを思い浮かべ、
草も木も なびきし秋の 霜消えて
空しき苔を 払う山風
とよみました。
下に移った法華堂も、1969年(明治2年)になくなりました。
鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より
政治力、人材掌握力は高く評価し、日本史における組織作りの天才であったという。朝廷から授けられる官位に対し、ものすごく敏感に反応し拒否したことは、組織作りの大きな弊害になると考えたのでしょう。鎌倉に幕府を築いたこともそうなのでしょう。ただ、その偉業のわりには、後世の人気に乏しい。その原因は、その権力は、実質的には東日本しかおよばなかったし、頼朝とその二人の子供で終わったためかもしれない。
高さ186cmの層塔、江戸時代に島津氏にとって建てられた。