聖眼寺
厚木市三田  標高 54.4m
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 寺院の由来と歴史

 聖眼寺(しょうげんじ)は上三田の才戸橋南側の県道から、山の根の長い参道を入った奥に観音堂が建立されています。昔は観音堂の左手に本堂と庫裡がありましたが、今は存在しません。
 江戸時代には相模三十三観音霊場の二十七番札所として観音信仰で栄えていた寺院です。寺は三田寺と呼ばれ、参道入口の門塔に「當国二十七番三田寺」と彫り込まれています。

 『新編相模国風土記稿』の古文書によると、開山は円珍(えんちん)といわれる智証大師(814~891)で、観音堂には千手観音長二尺智証作を置くと記されています。円珍は14歳で比叡山に登って修行。天台教学・密教を学び、第五世天台座主となり、法門の発展に尽くした高僧です。
 相模三十三観音霊場は、宮の藤巻寺から始まり大磯、平塚を巡り秦野の太岳院に至るまでの巡拝ルート。


 観音菩薩を本尊として祀る寺を観音霊場と呼び、各地の寺々を巡拝する巡礼は現代でも行われていて、厚木では飯山の長谷寺が“坂東観音巡礼”の第六番の札所となっている。最も広く知られている観音巡礼としては西国・坂東・秩父などの霊場巡りがあるが、四国には空海が拓いたとされる“四国八十八箇所”を巡る遍路が行われて、現代に至っても多くの人々が出かけている。
 観音霊場の巡拝は平安時代に僧侶の廻国修行として始まったが、観音信仰の浸透とともに貴族階級や武士の間にも広まっていった。さらに江戸時代に入ると、六観音の功徳を願って一般庶民も観音霊場巡りに出かけるようになり、中期以降には益々その数を増していったのである。
 弘法大師に帰依して霊場を巡拝する四国八十八箇所の遍路は、阿波国から始まって土佐・伊予・讃岐を巡る全行程およそ1400kmに及ぶものであるが、この過酷な遍路の旅にもかかわらず熱心な信者たちは、自らの信仰の証とするために出かけたのであった。
尊氏の位牌と宝篋印塔

 寺には位牌があり、表に「足利将軍御尊霊」、裏に「足利尊氏公君為御養子文七君菩薩」 「庚永二年三月初三日(1343)」と記されています。墓地内には位牌と同じ日付と内容の室町時代の「宝篋印塔」が建立されています。参道入口の門塔高さ3mほどの石碑正面に「當国二十七番三田寺」右面に「足利尊氏公古廟」左面に「千手観世音菩薩」裏面に「嘉永四年四月吉日」(1851)と彫り込まれています。
 この史実は尊氏は妻田村・荻野村の領地を有しており、また土地争いの制札を下した記録も江戸幕府の官選資料にあり、この地と寺に何らかの関わりがあったことを思わせます。





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