秋葉神社
厚木市上荻野  標高:127.2m
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 秋葉神社は、火伏の神として全国に400社ほどあり、総本宮は静岡県にある秋葉山本宮秋葉神社です。祭神は火を司る火之迦具土大神(ひのかぐつちのおおかみ)でです。明治までは秋葉大権現といわれる仏教寺院で、秋葉山三尺坊が信仰を集めていました。

 古代は秋葉山をご神体山としていましたが、秋葉山本宮秋葉神社の社伝によれば、709年に社殿を創建とあり、岐陛保神ノ社(きへのほのかみやしろ)といわれたらしい。
 「秋葉山縁起」によれば、718年に行基によって行基作と伝えられる聖観音像を本尊として大登山霊雲院が開山され、別当寺として一山を支配したとあります。弘仁年間(810~823)に嵯峨天皇の勅願によって七堂伽藍が建立されると、秋葉山霊雲院秋葉寺と改称され、その後修験道が盛んになると、天狗の住む山といわれるようになりました。

 秋葉三尺坊大権現が火伏の神として全国的になるのは徳川綱吉の頃からで、秋葉山三尺坊が火伏に霊験あらたかとして宣伝されてからです。秋葉講が組織され、とくに火事の多い江戸では多くの秋葉講が結成されて、町の各所に秋葉山常夜燈が設置され、家々の軒下には秋葉大権現のお札が張られるようになりました。大勢の参詣者が秋葉大権現を目指すようになって全国各地に広がっていきました。

 火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)を祀る社では、狛ヒツジが安置しているところまあり、ヒツジには、火災除け、産業振興のご利益があるとされています。なを、ヒツジは、日本には棲息しておらず、初めて渡来したのは、599年のことだといいます。
 神社を下ったところに荻野川が流れており、次の伝説があります。

【石になったサト芋】

 荻野川の“源氏河原”と呼ばれるあたりは、不思議なことに毎年夏になると、川の水が枯れちょうどサト芋の収穫時期なのにその芋さえ、洗うことができなくなるのだと言います。それには、こんな言い伝えが今でも残されています。
 今から約1200年前(8百年代)、全国を行脚していた弘法大師は、ある夏の日、この荻野にさしかかりました。すると、一人の農婦が、源氏河原で取りたてのサト芋をざるで洗っていました。土手の上から、それを見た大師は、イモを洗う農婦の見事さに見とれてしまい、いつの間にか、その農婦の後ろまで近寄っていました。そして、丁寧に頭を下げた大師は、その農婦に「私は旅をしている者です。この辺りは山が多く、宿屋もありません。すまないが、そのサト芋を恵んではくれませんか」と話し掛けました。ところが、その農婦は「このサト芋は石のように硬いので食ぺられません。水も少ないので……」と、大師(頼みを何となく断わりました。しかし、大師はなおも頭を下げて、再三再四、丁重に頼みましたが、相手にしてくれませんでした。すると、どうでしょう。たちまち、ざるの中のサト芋は本当の石ころに変わり、川の水はなくなってしまいました。その旅の僧こそ、有名な弘法大師だったのです。そのことを後になって聞いた農婦は、自分の思いやりのなかった行為に心を痛め、さっそく大師のもとで一生懸命に修業した農婦は、その後荻野村へ帰ったということです。
 「厚木の観光ポケットブック」(厚木市観光政策課発行)

3月にお祭りをしているそうです。 
 火之迦具土大神(ひのかぐつちのおおかみ)で伊弉諾(いざなぎ)、伊弉冉(いざなみ)の子供




 祭神は、火之迦具土大神(ひのかぐつちのおおかみ)で伊弉諾(いざなぎ)、伊弉冉(いざなみ)の子供。
 ここにも三尺坊というお天狗様が現れ、
 「われこそは秋葉大権現なり、全市全町の火災を防ぎ盗難を除く、われを念ずる者は火の災いをのがれしめ、願いのある者はその願いを成就せしめ、各家無病息災ならしめん……」
 との声を残して消えたのでしょうか?
 三尺坊の十三の誓願の中でも三大誓願に、
1、失火と延焼と一切火難を逃がす
2、病苦と災難と一切の苦患を救う
3、生業と心願と一切の満足を与う
とあるので、他にも対応できるのでしょう。
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