本成寺(ほんじょうじ)は、神奈川県鎌倉市腰越にある日蓮宗の寺院。旧本山は小町本覚寺、潮師法縁。龍口寺輪番八ヶ寺の一つ。
延慶2年(1309年)、淡路阿闍梨日賢が建立した。
門を入った正面に本堂があり、右側に墓地、左側に庫裏(くり)があります。日蓮(にちれん)の弟子日賢(にっけん)が1309年(延慶2年) に開いたと伝えられています。本尊は、三宝本尊(さんぽうほんぞん)(祖師(そし))という「南無妙法蓮華経(なむみょうほうれんげきょう)」のお題目が書かれた塔と釈迦如来(しゃかにょらい)、多宝如来(たほうにょらい)で、日蓮上人像とともにまつられています。また、岩の上のキッネにまたがった稲荷明神像(いなりみょうじんぞう)もありますが、これは「教(経)-稲荷」と呼ばれ、左手に宝珠(ほうじゅ)を持つ江戸時代のものです。
(鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より)
日蓮は『法華経』への帰依を激しく幕府に求め、鎌倉の人びとにもすすめましたが、かえって反発をまねくことになりました。草庵を襲われたり、伊豆に流されたり、命にかかわる法難を四度にわたってうけました。文永八年(1271)の四度目には幕府の手で捕らえられ、龍(たつ)ノ口の刑場で斬首されることになりました。そのとき、江ノ島のほうから月のように光るものが現れ。斬首は中止になって佐渡に流されることになりました。
『法華経』には持経者の受難を告げる言葉があります。「この経は如来の現在すら猶怨嫉(なおおんしつ)多し。滅度の後をや(『法華経』を信じる人は釈迦如来の在世時でも迫害される。まして滅後の悪世には)」と。
日蓮は四度の法難を『法華経』の真実の証とし、自分自身が釈尊から『法華経』弘通(ぐつう=仏教を広めることの勅をうけた釈尊の直弟子)の自覚を深めました。
本堂には本尊三宝祖師と日蓮上人像が祀られている。
日蓮は日本における釈迦如来の直弟子だという自覚に立って自身を上行菩薩になぞらえ、大曼荼羅の題目の真下に花押(署名)を入れました。大曼荼羅には日蓮が『法華経』の諸尊の世界にいることがあらわされています。このため、日蓮宗では仏壇の内部に「日蓮聖人」の像を祀るのが習わしになっています。
三宝とは、仏・法・僧のことで、仏教における重要な要素をいいます。この三宝を守護するのが三宝荒神です。陰陽道(おんみょうどう)と仏教の民間信仰が習合して生まれました。
「稲荷の神霊と頼朝」
頼朝が伊豆の蛭ヶ小島に流刑になっていたとき、ある夜、翁が枕元に現れ、「兵を起こし、平氏を滅ぼし、天下を統一せよ」と激励したと言う。
さっそく、頼朝は鎌倉に入るやいなや、稲荷の神霊に感謝して、佐助山の隠れ里を選び、社殿を造らせ、佐助稲荷神社とうしたと伝えられている。
このためか、鎌倉には稲荷を祀るところが多い。
「稲荷神の使いの狐」
昔の人は「きつねは稲荷さまのお遣いで神通力があり、人間にとって良いことも悪いこともする」と信じていた。神様のお遣いであるきつねを殺しでもしたら恐ろしいたたりがあり、たとえ石を投げたりおどしたりしただけでも、その人の顔をよく覚えていて、夜になると大勢の仲間を集めてその家に押しかけ、家畜を喰い殺したり家を壊したりして一晩中あた(仕返し)をするといわれていた。
「稲荷明神社」
稲荷の中には、伏見系以外に曹洞宗の豊川稲荷や日蓮宗の最上稲荷のように荼吉尼天を祀る仏教系の稲荷もある。荼吉尼天は女神で白狐にまたがり、左手に宝珠、右手に剣を持つ二臂像が一般的だが、三面二臂の像や右手に剣・矢・鉢・未開敷蓮華、左手に
摩尼宝珠・弓・錫杖、残りは施無畏印(せむいいん)を結ぶ八臂像、天女の姿の像などがある。
梵名はダーキニーで、咤枳尼・荼枳尼・挙吉尼とも音写される。真言は「ナウマクサマンダボダナンキリカソワカ」で、この真言を唱えれば、福徳・商売繁盛などの功徳があるとされる。