祥雲山龍鳳寺は曹洞宗江戸(東京都)駒込の吉祥寺の末寺です。
大州安充禅師(本寺二世)により享禄三年(1530)開創じされました。開基となったのは地頭庄(荘)左近太夫で、境内に墓があります。
庄左近太夫は命により、何人といえども境内や山林に入り竹木伐採などをなす者は、軽重にかかわらず罪科に処すべきとの誓令を発し、境内山林の風致を維持し、今日まで幽静な寺院としての景観を伝えています。
豊臣秀吉が太閤検地を始めると、天正十九年(1591)には七石の御朱印を賜り、寺領として明治に至るまで隆昌を極めました。しかし明治初年に廃仏毀釈令が発せられると一戸残らず離壇、堂はすべてなくなり、庫裡は小学校として売られました。
(明治維新の廃仏毀釈令は、寺院から撞鐘、半鐘、鰐口などを提出させ大砲の材料とした一面もあったのでしょう。)
明治二十四年になると、第二十五代護三和尚は寺門の復興に努め、丈六(5.28m)の誕生仏を自ら彫刻し、大正年間に完成させました。そのため第二十六代大徹義雄和尚(昭和初期)にかけては、桜花燗漫四月の花まつりに老若男女が訪れ賑わいました。
慶応4年(明治元年)3月に布告した「神仏判然令」。この法令に基づいて初めに全国の神社に対して命じたのは、神社に所属している別当や社僧を還俗させることで、それらの者が僧籍から抜けることを指示したのでした。次に出したのは仏像を神体としていることの廃止で、神社内にあるすべての仏像を取り払うことを命じ、また同時に社前に備えてある仏具なども除かせたのでした。
しかし、これがもとで起こった「廃仏毀釈」は、国学の平田派など一部の過激な国学者や神道家、そして地方の神官などが一般の民衆を扇動しにため起きたもので、その破壊行為は全国的な規模で(地域による違いはありますが)行われたのでした。神社内に祀られていた仏像は寺院などに移して破壊の難を逃れたのですが、境内や路房に置かれていた石仏などの多くが割られたり削られたりしました。石仏は日常的な信仰の対象として最も身近な存在でしたのに、無残な破壊行為に及んだことの真相は分からないのですが、国家権力を後ろ盾とした民衆扇動の恐ろしさを見る思いがします。
(「厚木の歴史的石造物を巡って」 制作:澤田五十二より)