左
下
段
へ
右手の生垣のなかに海外留学の先覚者土居咲吾の墓がある
生垣のなかに海外留学の先覚者土居咲吾の墓がある。吾は長尾幸作と云い、芸州山県郡から尾道町中浜へ移った開業医長尾俊良の長男として天保六年(1835)に生れた。かねて父俊良から洋学のまさっていることを聞かされていた幸作は、二十一才のとき京都の広瀬元斎に師事して蘭学をさらに二十五才の春、江戸に下り坪井芳洲に学んだが、このあと独学で英話を修得、それで満足できず、たまたま耳に入った幕府の日米修交通商条約批准交換のための渡米使節団の派遣のことであった。勝海舟の卒いる咸臨丸へ便乗を許され、福沢諭吉らと共に万延元年(1860)我が国を発しアメリカに渡り英学を修めて帰国した。
次
頁
へ
帰朝後、父が病死し家業をつぐため尾道に帰ったが、芸州藩では幸作を士籍に列し、アメリカ仕込みの新知識としてこれを厚遇した。
その後、軍艦買入密航事件のため一時禁固刑に処せられたが、これは表面だけのことで、久しからず刑を解かれ、このあと感ずるところがあり「土居咲吾」(土に居して吾を咲う)と改名、明治元年三原藩が今の糸崎町に開設した三原洋学所の取締方となり、また長江一丁目、正授院にも英語塾を開いて後進を導いた。
その夫人糸子も今の尾道幼稚園の前身である土居遊戯園を創設、幼児教育の先駆的役割りを果した。
三間四方の墓標七基が並び、向って正面醐番右手のが咲吾の墓、その右手にクラブ尾道が皇太子御成婚を記念して植樹した桜が生垣や樹木に圧せられながらも懸命に育っている。