昔は梅嶺山(ばいれいざん)夜光寺(やこうじ)とい真言宗(しんごんしゅう)の寺でしたが、1293年(永仁元年)日朗(にちろう)の高弟だった日像(にちぞう)が開山となって日蓮宗に改められたと伝えられています。また、梅立寺(ばいりゅうじ)とか梅嶺寺(ばいれいじ)とかの名も伝わっていますが、
江戸時代の初めごろ日達(にちたつ)によって薬王寺と改められ再興されました。その後、徳川忠長(ただなが)が1633年(寛永10年)高崎で自刃(じじん)しましたので、妻の松孝院(しょうこういん)殿(織田信長(おだのぶなが)の次男信雄(のぶかつ)の娘)は、夫の霊を供養するためにこの寺に墓を建立し、
多額のお金と広大な土地を寄進しました。こうしたこともあって、一時は3,000坪(約1ha)ほどの境内に五重塔やいろいろな建物が造られるほどの大きな寺になりましたが1720年(享保5年)にすべてが焼失してしまいました。
このように、江戸時代には徳川家ゆかりの寺となって寺紋(じもん)に三葉葵(みつばあおい)が用いられたため、一般住民の埋葬は許されませんでした。明治時代に入ってからは保護する人もいなくなり、江戸時代に支配的だった仏教のカを弱めようとする動きもあって、
その前に大黒天(だいこくてん)像、左に開山の日像上人像、右に馬頭観普(ばとうかんのん)、観音菩薩(かんのんぼさつ)などが安置されています。
日蓮上人像は、高さが90cmほどあり、日連像としては大きな方で、開いたロに歯と舌が見える珍しい像です。信仰上の理由から上半身が裸なので、実物の法衣(ほうい)と袈裟(けさ)を着せてあります。また、背中の腰の部分には四角い穴があり、そこから中に将軍の遺骨を納めたと伝えられています。
この上人像は、
住職のいないときもありましたが1923年(大正12年) に50世の日振(にっしん)が復興しました。
以前の本堂は、1727年(享保12年)に建てられたものでしたが、関東大震災のときにも傾いたりずれたりもせず、びくともしなかったそうです。それは、この寺が大きな一枚の
岩盤の上に建っているからだということです。江戸時代をしのばせる古い建物で、柱などは建てられた当時のものがそのまま使われていましたが改築されました。
本堂は公開されていませんが、中には中央に日蓮上人(にちれんしょうにん)像、
11代将軍家斉(いえなり)のときの1834年(天楳5年)に幕府が江戸の雑司ヶ谷(ぞうしがや)に建てた感応寺(かんのうじ)の日蓮上人像だったそうです。1841年(天保12年)に水野忠邦(みずのただくに)の天保の改革によって感応寺が廃寺(はいじ)となり、取り壊されたものが池上本願寺(いけがみほんがんじ)に移されました。その後、この上人像はいろいろな寺に預けられました。しかし、大きな像なのでどの寺も守っていくことが難しく、最後には感応寺の材木と共に、
しかし、この木造の釈迦如来像は後に作られたもので、もとは仏の世界に産出する砂金で造られたという釈迦像がまつられていました。この像には、次なると、この寺のあたりで光る場所がありました。こうしたところから土地の人々は、この寺を夜行寺(やこうじ)と呼ぶようになりました。ある時、その光る場所を掘ったところ、陶器で作られた観音像の頭部だけが出てきました。当時の住職が体の部分を木で作り、その上に出土した頭部をのせて、熱田大明神としてまつるようになったということです。
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比企ヶ谷(ひきがやつ)の妙本寺に保存されました。1875年(明治8年)に身延山(みのぼさん)が大火災となり、焼失した祖師堂(そしどう)を建てるために妙本寺に保存されていた材木が使われました。その後も上人像は妙本寺に残り、やがてそれを薬王寺でまつることになったのだそうです。
本堂には他にも仏像がいろいろあり、その中に熱田大明神(あつただいみょうじん)像もあります。ふだんは厨子(ずじ)に入っていて見ることができませんが、この像にはこんな話が伝わっています。
享保年間(1716年~1736年)のことです。夜ににょらい)像がまつられています。
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