40cmほどの高さの立像ですが、陶器の頭部は中国で作られたものといわれています。
本堂の左側に、裏山の墓地に続く石段があり、その石段を上りきったところに釈迦堂(しゃかどう)が建っています。1930年(昭和5年)に建て替えられたもので、木造の釈迦如来(しゃかのような話が伝えられています。
山口県下関のあたりの海で、魚がとれなくなった時期がありました。漁師達が、赤間ヶ淵(あかまがふち)と呼ばれるとても深いところに網を入れてみると、
大きなやぐらがあります。不思議なことに、このやぐら内の地面に直接置いた石像は、どんな材質のものでもだんだんとけていくのだそうです。現在、やぐらの入口近くに4体の石像が並んでいますが、どれも像の輪郭がわからないくらいにとけています。このあたりは海底が隆起(りゅうき)したところなので、塩分の影響が大きいのではないかと考えられています。
墓地の中央付近の山際に、高さ3m余りもある大きな宝篋印塔(ほうきょういんとう)が2基並んでいます。
高さが17cmほどの小さな釈迦如来像が網にかかりました。その像は、背中に刻まれた文字から、中国の唐の時代の645年に作られた金銅製の珍しいものだったので、領主の原田氏は、どこへ行くにも持ち歩くほど大切にしていたということです。原田氏は、薬王寺を再興)した日達(にったつ)を
崇拝していましたので、日達が薬王寺に入ったときにこの像を寄進したということです。その後、この像は2回も盗難にあったので、寺では代わりの釈迦如来像を造って釈迦堂にまつり、砂金で造られた釈迦像は本堂にまつるようにしたのだそうです。
この釈迦堂の裏に、
観音堂(本来は釈迦堂)
観世音(観音)菩薩とは、「観世音」は「世の音を観(み)ろ」とも読めるところから「世の人々の声をはっきり見極める方」と言われ、私たちの願いを聞き、救済するために三十三身に
化身すると経典に説かれています。
観音さまが大きな慈悲のお心で、それぞれの人に合わせて三十三のお姿に変化され、救いの手を差し伸べて願いをかなえてくださるのも、それを手だてとしてすべての人々を佛さまの道に導こうと願われてるからに他なりません。(案内板より)